第41話 白豚、コンサートに行くってよ
姫君とのお歌の時間が終わると、本日レグルスくんは源三さんと宇都宮さんと三人で剣術の半日課外学習に行くそうで。
私が以前帝都に行った時も、レグルスくんを屋敷の外に連れ出して乗りきったらしく、今回も同じ事をするんだそうな。
「あにうえ、いってきます」
「はい、行ってらっしゃい。源三さんと宇都宮さんの言うことを、ちゃんと守ってね。危ないことはしちゃダメだよ」
「あい、あにうえもいってらっしゃい」
「はい、気を付けていってきます」
レグルスくんの「さしすせそ」はやっぱり「しゃ・しゅ・しょ」に聞こえる。けれど大分長いセンテンスを話せるようになったような。
「源三さん、宇都宮さん、レグルスくんをよろしくお願いします」
「はい、給わってごぜぇますだ」
「宇都宮にお任せくださいませ!」
二人は真ん中にレグルスくんを挟むと、一礼してその幼い手を取る。
そして屋敷の裏手にある山へと連れだって歩き出した。
それを見送っていると、ざっと風が吹いて、斜め後ろに人の気配が降り立つ。
振り返るとロマノフ先生が立っていた。
「やあ、レグルスくんは出発しましたか」
「はい。頑張って来るそうです」
「そうですか。では、私たちも行くとしますか」
「よろしくお願いします!」
ロマノフ先生と手を繋ぐと、急な浮遊感、次に落下する感覚が。
どうしても浮遊感を感じた時点で目を瞑ってしまうから、転移している間の状況が見られないのが残念。
すとんと踵が硬いものに触れた。
「はい、着きました。目を開けて大丈夫ですよ」
「はい」
ゆっくり目を開けば、徐々に爪先が木目も美しいフローリングに着いているのが解る。
少しずつ視線を上げていくと、本棚に規則正しく並べられた沢山の本に、鼈甲飴の光沢を持つ木の机、散らばった五線譜が見えた。
ヴィクトルさんのお家の二階の部屋。
ゆったりとした足音が扉の前で止まった。
「やあ、あーたん!アリョーシャも。いらっしゃい、二週間ぶりだね」
「お久しぶりです、ヴィクトルさん。お元気そうで何よりです」
「お邪魔しますよ、ヴィーチャ」
瞬きすれば音がしそうな長い睫毛に囲まれた、緑の瞳が穏やかな光を湛えている。
扉を開けて現れた家主のヴィクトルさんが、ハグで迎え入れてくれた。
「次の日から、マリア嬢は真面目にあーたんが教えてあげた方法で歌のレッスンに通って来てたよ」
「そうなんですか」
「うん、今日もリハーサル前には楽屋にレッスンに来てほしいって頼まれててね」
「ああ……じゃあ、その時に一緒にご挨拶に伺えば?」
「そう言うこと。ちゃんと招待状も預かってるから、その時に渡すよ」
「ありがとうございます」
一階のリビングに案内されて、三人で近況報告がてらお茶をする。
そう言えばと、ウエストポーチからロッテンマイヤーさんに器ごと綺麗に包んでもらった氷菓子を取り出して。
「これ、お土産です。氷菓子ですので、お茶請けにどうぞ」
「ああ、ありがとう。じゃあ、早速頂くね」
包みを解けば、美しい硝子の器に丸みを帯びた薄桃のソルベが鎮座していた。
それを見ていたロマノフ先生は何故か遠い目をしてたけど、ヴィクトルさんは気づかず、付属の小さな銀のスプーンでソルベを掬う。
形のいい唇にピンクの氷菓子が滑り込むと、ヴィクトルさんの目が驚きに見開かれた。
「うわぁ、中に入ってる桃……!」
「凄く甘いでしょ?」
「うん、美味しい……!あーたんのとこは、桃が特産品なの?」
「いいえ、桃は頂き物なんです」
首を横に振ると、「へー」とか「ほー」とか言いながら、ヴィクトルさんはスプーンを動かす。
最後の一匙を口にいれて、満足そうに笑うヴィクトルさんに、それまで遠い目をしていたロマノフ先生が声をかけた。
「リハーサルと言うのはいつ始まるんです?」
「そうだね。開演が夕方だから、もう少ししたら、かな。マリア嬢もあーたんが来るのを待ってるから、そろそろ行こうか」
食べ終わった器を片すと、外出の用意を整えて。
いつかみたいに私を真ん中に挟んで、街へと繰り出す。
国立劇場は以前にお詣りした合同祭祀神殿より、ほんの少し中央の皇宮に近いそうだ。
昼過ぎのマルシェは、やはり行き交うひとたちで大賑わい。
並び立つ店には何やらポスターのようなものが貼られていて、絵の中の貴婦人の顔がマリアさんに良く似ている。
じっと見ていると、私がポスターを見ている事に気がついたヴィクトルさんが、「ふふっ」と笑った。
「今日はね、マリア嬢の御披露目なんだよ」
「御披露目、ですか?」
「うん。宮廷付きの歌手としての。これまでは第二皇子お抱えの歌手だったけど、これからは帝国を代表する歌姫ってわけ」
よく解らないけど、マリアさんの後ろ楯がただ者でないことだけは解った。
国立劇場に近付くにつれ、皇帝の住まいにも近くなるせいか、道が規則正しく補整され、大通りの左右には糸杉も植えられて、見映えも良くなっていく。
それに合わせてか建物もマルシェのあった付近とは違い、白壁に円錐形の屋根のいかにも貴族の邸宅ですと言わんばかりの大豪邸が建ち並んで。
何の気なしにその屋敷の並びを見ていると、ヴィクトルさんが言いにくそうに言葉を紡ぐ。
「あーたん、あのね。この通りなんだけど……」
「はい、貴族の屋敷が並んでるってことは、じろじろ見ちゃダメですよね。気をつけてます」
「あー……そうじゃなくて、この通りには菊乃井伯爵邸もあるんだ」
「ふぁ!?」
思わぬ言葉に肩が跳ねたけれど、よく考えたら帝都に屋敷があるのは別におかしなことじゃない。
問題は、そこに両親がいるか否かで。
いや、両親に会っても構いはしないけど、楽しくないから会いたくはない。向こうだって愉快な気持ちにはならないだろう。
眉間にシワを寄せていると、ロマノフ先生の指先がむにむにと頬を摘まんだ。
「アリョーシャから事情は聞いてたから一応調べたんだけど、あーたんの親御さんは二人とも余り芸術に興味ないみたいだね。今日のコンサートにも来ないみたい」
「そうなんですか……」
「うん。まあ、これに参加して第二皇子派って思われたくないだけかも知れないけど」
「第二皇子派と思われたくない」と言うからには、第一皇子派もあるってことで、現行派閥争いの真っ只中ってことか。
「じゃあ、私が顔を出すのも良くないんじゃ?」
「いや、それは大丈夫ですよ」
「うん、あーたんは僕とアリョーシャの連れだし、僕もアリョーシャも王位継承には中立だって、先々代からずっと言い続けてるもん。かえって中立の僕たちと行動してる方が良いかもよ」
ロマノフ先生とヴィクトルさんは、一代限りではあるけれど帝国騎士の称号を持ち、更に言えばそれなりに人脈があるそうだ。
それは帝国認定英雄であったり、宮廷音楽家だったりするからなんだけど、割りと影響力がある方らしく、そうなると権力争いで必ず引っ張り出そうとしてくるひとがあるとか。
それに嫌気がさして先々代の時に、そういったことには関わらない、中立であると表明したそうだ。
中立であると言うのは、時に旗印をはっきりさせるより危険があったりするものだけれど、帝国認定英雄や彼が『世界で十指に入る』と公言して憚らない魔術師である宮廷音楽家を敵に回すのは得策ではない。
関わらないと言うなら放っておけ。
それが貴族たちの、所謂高度な政治的判断とやらだそうな。
そんな中立の二人と行動していることで、コンサートに参加していても、菊乃井には何の含みもありませんよ、と印象付けられるってこと……かな。
大人の世界って怖い。
ぽてぽてと手を引かれながら歩くことしばらく、大きな建物が見えてきた。
以前見た合同祭祀神殿がパルテノン神殿なら、今度はパリのガルニエ宮を彷彿とさせる。
ファサード───建物正面のデザインだけど───は豪奢な、羽の生えた馬に跨がる女性の彫像が左右に設置され、中央のドーム状の吹き抜けの屋根には帝国の象徴たる麒麟と鳳凰が並び立つ。
劇場を訪れるものを睥睨する二体は、金メッキ加工なのか日差しに照らされ、目映いばかりに光を放っていた。
東西のパヴィヨン───別棟は、休憩のための小部屋が沢山あるのだけれど、そこは東と西では利用できる身分に違いがある。
西側は皇族や貴族用、東側は平民用だそうだ。
荘厳華麗な入り口を潜ると一番最初に目に入るのは、赤い絨毯が敷き詰められた大階段。
それ自体は欄干まで大理石で出来ていて、踊場に繋がり、更にそこから左右に別れた階段がある。
で、階段を上がりきれば、今度は柱と言う柱に麒麟。鳳凰が彫刻され、壁紙は見事なベルベット、天井には天女たちが舞い飛ぶ様が優雅に描かれていて。
そこを抜ければ馬蹄型の客席が見えてくる。
けれど、私たちがまず向かうのはマリアさんの控え室のあるキューポラ、外から見たら麒麟と鳳凰の像が立つドーム天井で、客席は後で案内してくれるそうな。
階段しんどい。
ぜーはー言いながら昇りきると、手を繋いでいた大人二人から拍手された。
「大人でも運動不足だと辛いのに、よく頑張りましたね」
「あーたん、お疲れ様!」
「…はー……ありがと…ご…ざ……ます……」
もう二度と上らないんだからね!?
乱れた息を整えるため、深呼吸を数度繰り返す。
耳障りな喘鳴が治まって来て、余裕が出てきたのでキューポラが中を見回してみると、やっぱり壁に華麗な花が描かれていて、眼が楽しい。
と、奥の部屋から硝子か何かが床にぶつかって割れたような音がした。
次いで上がった女性の悲鳴と、その緊急を知らせる響きに緊張が走る。
ロマノフ先生とヴィクトルさんとが顔を見合わせると、次の瞬間には私はロマノフ先生に抱えあげられて。
弾かれたように走り出すヴィクトルさんを、ロマノフ先生と共に追う。
すると辿り着いた先の部屋には女性が二人。
豪奢なドレスに身を包み、けれどその華奢な喉を掻きむしるように苦しむマリアさんと、彼女の背を擦りながら「どなたかお医者様を!?」と叫ぶ、おそらくマリアさんのメイドだろう。
「マリア嬢!?どうしたの!?」
「それが、差し入れのお水を飲んだ途端、喉を押さえて苦しみだされて!」
これは、事件です!
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