第38話 いつか来る、その時

 『離魂症』とは大病なり大怪我なりで危篤に陥った経験のあるひとが、回復したあと極々希にかかる魂の病で、魂と肉体の繋がりが稀薄になり、魂が肉体から離れやすくなっている状態を指すのだそうな。


 「治療法はない。おまけに魂と肉体の解離が激しくなれば、生命力が低下して死にやすくなる。これが悪い話じゃ」

 「はぁ……そう、なんですか」

 「が、何とかする方法はある。良い話とは、その何とかする方法が意外に簡単なことよ」

 「簡単……」


 姫君がふふんっと胸を張る。これは仰々しく尋ねよって合図なのかしら。

 ちょっとリアクションに困っていると、私のシャツの裾を掴んでいた手を離し、レグルスくんが姫君にとてとてと駆けよる。そしてぎゅっとその美しいドレープを持つ衣を、ぎゅっと握った。


 「ぎゃー!?レグルスくん!?」


 不敬罪という不穏な単語が頭を過る。あわあわとレグルスくんを止めようとすると、姫君が呆れたような顔で此方を見た。


 「なんじゃ、大声を出しおってはしたない。ひよこ、いかがした?」

 「にぃにのごびょーき、なおる?」

 「うむ、ひよこには難しかったか。そなたの兄の病は治らぬ。しかし、これ以上悪くならぬようにする方法はあるのじゃ。これから教えてしんぜるゆえ、しかと聞きやれ」

 「あい!」


 どんな事を言われるのか、私よりも真剣な顔をしてレグルスくんが待つ。私も固く唇を引き締めると、姫君のお言葉に備えた。


 「魔素神経を鍛えよ」

 「魔素神経を鍛える……」

 「魂と魔素神経は、肉体に言い換えるなら心臓と血管に当たるのじゃ。肉体と魂の繋がりが希薄なら、魔素神経と魂の繋がりを太くして、魔素神経で肉体に縫い止めてしまえと言うことらしい」

 「……らしい、ですか?」

 「何やら小難しい説明をされたが、忘れたわ。兎も角、魔素神経を鍛えるのが『離魂症』の対症療法だと言われたのじゃ」


 ふんっと鼻を鳴らして胸を張る姫君に、レグルスくんが小鳥のように首を傾げて、それから手を元気に挙げる。


 「しつもんです!まそしんけーって、どうやってきたえるですか?」

 「良い質問であるぞ、ひよこ。魔素神経は使えば使うほど鍛えられ、太くなるのじゃ」


 魔素神経の総量と言うか、発達量と言うかは、生まれついて決まっているそうだ。

 頭の先から爪先までびっしり魔素神経が通うひともいれば、首から上だけ、片手だけ、少なければ足の小指だけといった具合。

 これはもう運としか言いようがなく、どうした処で変わらないそうで、だからこそ貴族は魔素神経の総量を増やすべく、魔術の才能の長けたものを血筋に組み込もうとするのだ。

 それは置いといて。

 魔素神経の総量は変わらなくても、鍛えれば太くすることは出来る。

 魔素神経の太さで何が変わるかと言うと、溜め込める魔素の量が変わるそうで、濃度が濃いほど魔術の効果が強くなるのだ。

 全身に魔素神経が通っていても太さが髪の毛ほどしかないひとと、手の小指一本くらいしか魔素神経が通っていなくても、その小指ぎちぎちの太さがあれば、出せる魔術の威力は大して変わらないと言う。

 魔素神経は魂と繋がっていて、身体とも繋がっている。魔素神経を鍛えて太くすれば、魂への繋がりも強くなり、肉体との繋がりも強くなる、イコール魂と肉体の繋がりも強化されるってこと……かな。


 「幸いにしてそなたは魔素神経が頭のてっぺんから足の爪先まで通っておるしの、後は魔術を使って使って魔素神経を太くすれば良いだけ。これも簡単なことじゃ、今までの様に魔素神経を意識して歌っておればよい」

 「んん?魔素神経を意識することが魔術を使うのと同じとは……?」

 「魔術を行使するのに必要なのは、招きたい結果をイメージすることじゃ。例えば攻撃魔術なんぞは火で相手を燃やすイメージから発展しておる。ひるがえってそなたに歌を歌わせるとき、魔素神経を意識させるのは何のためであった?」

 「音程が甘いので、その補正……あー……声帯の強化、つまり身体強化の魔術を使ってたと言うことですか」

 「大雑把に言えばの」


 なんと。

 私は知らない間に魔術を使ってたらしい。

 それじゃあもしかして、レグルスくんが階段から落ちそうになったときに、身体が軽くなった気がして、落ちるのに間に合ったのは無意識に身体強化をかけたからかしら。

 ありがとうございます、姫君。グッジョブ、私。

 衝撃の真実にびっくりしていた私を他所に、レグルスくんが再び姫君のお召し物の裾を引く。


 「まじゅちゅのれんしゅーしたら、にぃにのごびょーき、わるくならないですか?」

 「うむ、悪化は防げる筈じゃ。そう言うわけで、これをしんぜるゆえ、食すがよい。ひよこも分けて貰うがよいぞ」


 そう仰って姫君が広がった袖から取り出されたのは、いつか頂いた美味しい桃で。

 手渡されたレグルスくんの顔がぱぁっと輝くのに、姫君が眼を細められた。

 桃特有の瑞々みずみずしくも甘い香りが、奥庭一面に漂う。


 「この桃は天界では神酒ネクタルを作るのに使われていての、滋養強壮によく効く。氷輪は魔素神経を鍛えるのはあくまで対処療法に過ぎぬ、基本は健康を心掛け、危うきには近寄らぬことじゃと申しておった」

 「氷輪とは、氷輪公主様のことで?」

 「左様さよう。死と再生を司るあやつは、こと魂の扱いに関しては我らよりずっと長けておるし造詣も深い」


 「なるほど」と呟けば、桃を抱えてとてとてと戻ってきたレグルスくんも、解っているのかいないのか「なるほどー」とおうむ返しする。

 と、ビシッと姫君の薄絹と団扇が私に向けられた。


 「まあ、そういうわけじゃから、そなたもう少し痩せよ」


 おうふ、つついてない藪から蛇が出てきた。

 いや、まあ、痩せるのはそもそもの目標だから、こくりと頷くと姫君も団扇を下ろされる。

 そして咳払いをされると、凛とした威厳漂うお顔をなさった。


 「そなたが色々と『みゅーじかる』のために動き出していると、イゴールから聞いたぞ。しかし、それはなんとも難しいことだと奴は言っておった」

 「はい……まあ、確かに。識字率を上げるだけじゃなく、生活水準もあげなくてはいけません。それには色々変えなくてはいけないものがあったり、増やさなければいけないものがあったり、より良く改善しなきゃいけなかったり、何より平和でなくてはならないし……問題は山積みだと思います」

 「うむ、なればこそ、その身体は丈夫で長持ちせねばのう」

 「ああ……」


 つまり、遠回しに心配してくださってるのか。

 なんと言うか、姫君は最初から凄く優しい。甘やかされてる気がする。

 照れ臭くなって頭をかくと、姫君もそうなのか僅かに視線がそらされた。

 とは言え、私の代ではきっと。


 「恐れながら姫君様、ことは私が長生きした処で、直ぐには成らぬと存じます」


 私や姫君の憧れるミュージカルも、彼の菫の園も、かつて生きた場所に芽吹いてから根付くまでにかなりの時間が必要だった。


 「芸術がその価値を認められ、愛され、発展し、華麗な花を咲かせるは、経済的な豊かさや平和という土台が必要なのです。しかし、人間一人に出来うることなどたかが知れています。私が私の代ですべきなのは、せめて菊乃井だけでも豊かにしつつ、私の志を受け継いでくれる次代の育成と仲間を増やすことだと思うのです」

 「……続けよ」

 「天才は百年を跳躍することもできましょう。しかし私は残念ながら非才の身、小さなことからコツコツ積み上げるしかできません。そして世の中は天才より凡人の方がどうやっても多い。時間はかかるでしょう。けれど、話をして通ずる物があれば手を取り合って進めば良い。そうやって前の世の中は、少しずつ良くなって芸術を育むに至りました。あちらの人間が出来たことです。身を切れば赤い血が流れる、同じ人間ですもの。こちらの人間に出来ない筈はない。時間はかかっても、きっと同じ地平にたどり着けます。その時こそ、私と姫君様の観たいものが見られる時なのだと」


 沈黙が降る。

 姫君のお顔は少し険しい。

 私と姫君の間で視線を右往左往させるレグルスくんの頭を撫でる。

 この子は私の志を継いでくれるだろうか。

 きゃらきゃらと桃を抱えて笑う彼が、大人になる迄だって十年以上はかかる。

 今から教育を施しても、それが次世代に受け継がれるまでにはもっと時間が必要なのだ。

 人間一人の力も時間も、世界を前には微々たるもの。

 けれど、細い糸も縒り合わせば強くなるように、志を同じくする人たちと手を繋ぐことができれば、そうしてそのまま次の世代へ受け渡していければ……。

 ふっと姫君の唇が三日月を描く。


 「思えば人間が産まれた時は今のような暮らし向きではなかった。それが少しばかり放っておいたら、いつの間にか曲を奏で、歌を唄い、舞踊るようになって……。しばし待てば、妾好みに変わると言うのなら、見守ってやるのもやぶさかではないのう」

 「姫君様……!」

 「そなたが志半ばで倒れても、その魂は妾が掬い上げてやろう。妾とそなたの望みが叶った暁には、どれほどの時を越えても必ずそれを見せてやろうから。励めよ」

 「はい!」


 この上もない約束を頂いた。

 出来るだけの事をしよう。

 ぺこりとお辞儀をすると、レグルスくんにシャツの裾を引かれる。

 何だろうと下を向けば、その目が揺れた。


 「にぃに、どこかいっちゃうの?れーもつれていってくれる?」

 「いや、今はいかないよ」

 「ほんとう?」

 「本当じゃ。ひよこも兄をよく助けたならば、同じところに連れていってやろう。しかと働くのじゃぞ」

 「あい!」


 姫君のお言葉に、レグルスくんは手を挙げて眼をキラキラさせる。

 一体いつまでこんな風に慕ってくれるのかな。

 将来を思うと少し切なくなる。

 そんな私の内面を知ってか知らずか、姫君もレグルスくんもにこにこして。


 「さあ、そうとなれば歌うのじゃ」

 「おうたー!」

 「はい!歌います!」


 穏やかな陽射しの中、私は歌う。

 弟の手を握りながら。

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