成年漫画の安いシチュエーションみたい
断りきれなかった。
彼女は、ゼロ距離まで詰め寄って来て、倒れ込むようにして、僕のくたびれたシャツを手繰り寄せた。彼女の匂いが、僕から断る力を奪い取った。
ギターケースと機材を持って運ぶ彼女と乗ったエレベーターは、窮屈だった。重たいだろうと思って、譜面台と持ち運びのアンプを持ってやった。我ながら、お人好しが過ぎる。
聞きたいことは、山ほどある。けれど、とにかく部屋に上がってから、もし誰かに聞かれたら、マズい、との一点張り。
黙りこくったまま、六階まで上がる。年季の入った速度の遅いエレベーターは、一分ほどかかって上った。
「綺麗にしているんですね」
テンプレートの台詞を彼女が言った。
玄関にゆっくりと、ギターケースが下ろされる。
「ありがとうございます。もう、アンプと譜面台も、置いていいですよ」
機材を下ろしたところで、彼女の前に立ち塞がる。一応、家の主として、ここで下手に出るわけにはいかない。
「
彼女は、ちょっとたじろいで、ちらちらと上目遣いを向ける。そんなことでは、動じないぞ、と心に言い聞かせる。
しばし、玄関にて、仁王立ちで見合う。やがて、艶やかな唇が動いた。
「命を狙われている……」
え、と思わず声が出てしまう。自分が、映画の中の非日常に突き落とされた感覚を覚えかけたが。
「――かもしれない」
「なんなんですか、はっきりしてください」
彼女は、僕のことをからかっているのか。
「でも、居場所がバレるとマズいのは、本当です」
「……僕の他にも、信用できる人は、いたんじゃないですか」
「あなたは、きっと私のことが好きだから、乱暴はしないと思ったんです」
はっきりとした声で言うものだから、口がぽかん、と開いてしまった。が、否定はできない。歩道橋下で、歌声に魂を乗せる彼女に憧れを抱いていたのは、事実だ。でも、あくまで、アーティストとしての、それで、異性としての感情ではないと思っていた。けれど、彼女を連れて帰ってしまっているあたり、よく分からない。
「とにかく、私は、帰れませんから……」
しゅん、と頭を垂れて、声もワントーン下げる。とりあえず、ワケありだということは分かった。
「まあ、入っていいですよ……」
納得は行ってない。けれど、彼女が引き下がる気配も、毛頭ないだろう。
「……、私、
その場で動かず、何の脈絡もなく、自己紹介が始まった。これから世話になるんですから、名前くらい知っておいてください、と。理屈はあっている。
ワケありの女性が、帰れないから泊めてくださいなんて言って、男の部屋に入って来る。成年漫画の安いシチュエーションみたいだ。数ページ捲れば、淫らなまぐわいになるような。
けれど、彼女の本名を知って、彼女が部屋に上がっているのを見ても、なんだか、驚きすぎてそれ以外の感情が湧かない。
「広いんですね」
広めの1LDKの間取り。ダイニングスペースの広さに、彼女は感心しているようだった。テーブルの周りを、ボヘミアン調のスカートを揺らしながら、歩いて回る。
思えば、着替えとか、どうするつもりで来たんだろう。
荷物の中に、衣服が入っていると思われるものはなかったし。ああ、今日だけやり過ごして、はやいところ帰ってもらおう。
「お腹、空いていませんか。材料あるなら、作りますよ」
お腹は、空いているに決まっている。仕事が終わってから、何も食べずに彼女のライブを最後まで聞いて、家に帰って来ているのだから。
というか、冷蔵庫の中、何かあったっけ。
そう思っている間に、彼女はもうキッチンに立っていた。勝手に冷蔵庫開けられるのか、とか一瞬考えたが、もうどうでも良くなってテレビをつけた。トーク番組がやっていたが、タレントの話がまるで耳に入ってこない。
「……冷蔵庫、開けちゃいますよ」
一応、聞いてくれるのか。どこまでが無遠慮で、どこまでが配慮があるのか、いまいちよく分からない。
「調理道具の揃えもいいんですね」
キッチンから声が投げられる。
一人暮らしなのに、調理器具の取り揃えがいいとか、部屋が広いとか、あまり言わないでほしい。気づいてしまうんじゃないか、とか思ってしまうから。
「……、三島さんって、誰かと一緒に住んでたりします?」
ああ、気づいてしまったか。というか、気づいたところで、なんで言うんだよ。
「それが、どうかしたんですかっ」
「いや……、私がいたら――」
「もう、半年前に別れましたよ」
正直、
「――そうですか。すみません」
申し訳なさそうに、彼女が言う。
けれど、それにいちいち言葉を返すのも、どこか面倒で。テレビに見入って、聞こえていないふりをした。実際は、聞こえていないのは、テレビの音声の方なのだが。
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