第30話 一歩前に進む


「あら、あなた、この家に何をしに来たの?」

 仁美ちゃんの家の呼び鈴を鳴らすと仁美ちゃんのお母さんが出てきた。

 そう、ここはお父さんのいる場所、お母さんの言う特別の国。

 仁美ちゃんをお祭りに誘いに私は勇気をだして高台にやって来た。

 お願いやから、仁美ちゃんが出てきてちょうだい、と祈るのも空しかった。

 仁美ちゃんのお母さんは私の顔を知っている。知っておかなければならないから知っているのだろう。

「あ、あの・・」

 やっぱり声が小さい。私はいっつもそうや。緊張すると声が小さくなる。

 仁美ちゃんにもいつも言われてるけど直らへん。

「聞こえへん。あの女に言われて来たのっ?」

 あの女って、私のお母さんのこと? もしそうだったらひどい言い方や。

 それに顔が怖い。仁美ちゃんはいっつも一緒にいて怖くないんかな。

 着てる服、あんなに綺麗やのに。なんか勿体ない。

「違います」

 私、はっきり言うた。言うことできた。

「だったら、この家に何の用事なのよっ」すごく大きな声だ。

 耳を塞ぎたい。ご近所にも聞こえてしまう。仁美ちゃん、家の中におらへんの?

「仁美ちゃんに用事があって・・」

 そう言うと仁美ちゃんのお母さんの唇が震えだしたのがわかった。

 私の存在がこんな風にさせてるの?

 私のお母さんが言う通り、私はやっぱり疫病神みたいな存在なんかな。

「仁美ちゃんはいますか?」

 仁美ちゃん、助けて!

「仁美に用事ですってっ!」

 すごく怖かったけれど、私は村上くんのことを思い出していた。あの時、村上くんも私の家に来てすごく怖かったはずだ。

 あの時、村上くんは何を考えていたのだろう?

「ここに来てるの、あんたのお母さん、知ってるのっ?」

 他のことを考えていたら怖いのを少し忘れた。

 村上くんもあの時、他のことを考えていたのかな?

「お母さん、誰か来てるの?」

 仁美ちゃんの声だ!

 仁美ちゃんが二階から駆け下りてきて玄関に出てきてくれた。

「悠子っ」

 仁美ちゃんの顔に驚きの表情が浮かんでいる。

 ごめんなさい、仁美ちゃん、突然、来てしまって・・

 私、ここに来たらあかんっていう約束を破ってしもうた。

「悠子、一体どないしたん?」

 仁美ちゃん、どないしてええんか、わからへん顔をしてる。

「あ、あの、仁美ちゃんと・・」

 どうしても口ごもってしまう。

「仁美、この子、何言ってるかわからへんわ、帰ってもらってちょうだい」

 私はこのままやったら帰られへん。ここで帰ったら二度とここに来られへん気がする。

「お母さんは黙っといてっ、悠子は私に会いに来たんや」

 仁美ちゃんはお母さんの前で私のこと、何度も「悠子」って言ってくれた。

 いつもそういってくれてるけどお母さんの前で言ってくれたことがすごく嬉しい。

「仁美ちゃん、どっか話が出来る所で話そうっ!」

 なぜか大きな声が自然と出ていた。私はもう引き返せないところまで来た、そんな気がしていた。

 目の前の二人の驚く顔だけが目に残った。



「それでね、村上くんが仁美ちゃんをお祭りに誘うように言ってくれたの」

 私は高台の公園のベンチに悠子と座っていた。

 いつか、悠子とここに来ようと思っていた場所だ。

 信じられないことに今日、悠子が誘ってくれた。私と話ができる場所に行こうと私を家から連れ出したのだ。お母さんはヒステリーのように怒鳴り私を止めたが無視した。私は悠子の言葉に勇気づけられここに来た。

「ふーん、あの大人しい村上くんがね」

 大人しい、と村上くんのことを一言で片付けたくないけれど悠子の前ではそう言わせて欲しい。

 夏の日差しが眩しい。公園の木々の葉までが太陽の光を反射しながら私たちの体を痛めつけるように降ってくる。

 でもそんなことは今は気にならない。この場所はお母さんの目にもつくし近所の目もあるから悠子とは来れなかった場所だった。

「村上くん、あの男の人に首をこうやって掴まれて、危なかってんよ」

 悠子は自分の両手で首を絞めるようにして状況を説明した。少し悠子のジェスチュアがおかしくて笑いそうになる。

「なんやろね、村上くんて・・」

 私は元気そうな悠子を見ながら安心して笑った。

「こっから私の家、よう見えるわ。いつも私はあそこにおるんやね」

 悠子は高台の東側のアパートを見ながら言った。

 ベンチに座っている私の両足は地面に着いているけれど悠子の足は着いていない。

 悠子の方が私よりも背が低いのだ。こうして二人で座っていると同い年ではなく姉妹に見えるかもしれない。私にはそれが嬉しい。

「この場所、今は暑いけど、陽が暮れだしたら涼しいのよ」

 ずっと悠子といたいからそんなことを言ったのかもしれない。

 悠子は私の心がわかったかのように微笑みを浮かべた。


 もう大丈夫だろうか?

 私は村上くんから預かっていた悠子の分のビー玉を出した。それは二つある。

 一つは新品で、もう一つは傷だらけで表面がくすんで見える。

「仁美ちゃん、そのビー玉、どないしたん?」

 悠子は驚きの表情で訊き「そっちのビー玉、私、見たことある。藤田のおじさんが見せてくれて、その・・」と言いかけたが、

 私は悠子の言葉を切って「とられたんやろ?」と言い微笑んだ。

 悠子はまた驚いたような顔を一瞬見せて小さく頷いた。

「村上くん、悠子がビー玉をあの男の息子に盗られたって言ってた」

「私がぼーっとしてたからや」

 悠子は悔やむように呟いた。

「これは村上くんから『小川さんに』って」

 私は二つのビー玉を悠子に手渡した。

「ああ、村上くん、そんなことを言ってたわ、仁美ちゃんが預かってるって」

 悠子はビー玉を受け取ると手のひらに二つとも並べて眺めた。

「村上くん、悠子に言ってたんやね」

「うん、あの時に」

 私たちの目の前で小さな子供がボールを転がして遊んでいる。

「そのビー玉、藤田のおじさんに悪くて弁償せなあかんって思うてたの」

 ボール遊びをしている子供が私たちの持ってるビー玉に気づいて、こちらを見ている。

「どうやって、村上くんの手にビー玉が渡ったんやろ?」

「今度、悠子から村上くんに聞くんや」と私が言うと悠子は頷いて「なんか、私って、いろんな人に守られてる気がする」と言ってビー玉を手のひらの上で転がした。

「私の知らんところで、いろんな人が動いてくれて」

 悠子の言っていることが少しだけわかる気がした。

「そんなことないと思う。みんなそれぞれ一生懸命なだけやと思うよ」

 誰が誰のためとかではなく、みんな自分のことに一生懸命になってたら、それが結局他人のためになるんちゃうかなって思った。

「仁美ちゃん、一生懸命って、私が村上くんに言うたのと、同じこと言ってる・・なんかおかしい」と言って悠子は笑った。

「えっ、そうなん?」

 私はなんて幸せな時間を過ごしてるのだろう。

「二つとも綺麗、どっちも大事にしとく」

 悠子はビー玉を何度か眺めた後ポケットにしまい込んだ。

「実は私ももらってるねん」私は自分の分のビー玉を出して悠子に見せた。

「仁美ちゃんのも綺麗・・」

 悠子にそう言われ何だか嬉しくなった。私も大事にとっておこう。

「悠子、お母さんにはどう言うてお祭りに行くん?」

 気になっていたことを悠子に訊いた。

「お母さんには村上くんと村上くんの親戚、たぶん、叔母さんやと思うけど、一緒に行くことになってる」

「それやったら、本当に村上くんを誘って、その叔母さんと一緒に行こか?」

「あかんよ」悠子は強く首をぶんぶんと横に振った。

「なんで? その方が悠子のお母さんに見つかった時も安心とちがう?」

 私はてっきりその方がいいと思って言ったのに意外な返事だったので少し驚いた。

「お邪魔したら、あかん」

 悠子、そんなに強く言わなあかんことなの?

「お邪魔って、村上くんのただの叔母さんちゃうの?」

 私にも叔母さんという人がいるけど、別にええんとちゃうかなって思う。

「ただの叔母さんやいうても、村上くん、叔母さんといる時、すごく楽しそう」

 悠子の目は遠くを見ている。おそらくそれは高台から見える風景ではないだろう。

 私は悠子とお風呂に行ったあの日の帰り、自転車の後ろを押しながら走っていた叔母さんの笑顔と自転車に乗って楽しそうにしていた村上くんを思い出していた。

「わかった、悠子、二人だけで行こっ!」

 私たちは神社の近くのポストの前で待ち合わせすることにした。

「うん、私、仁美ちゃんと二人きりの方がええし」

 一緒に公園から見える夕陽を見たかったけど、いつまでもここにいるわけにはいかなかった。私のお母さんも怪しむだろうし、悠子もアパートのお母さんを気にしている。

「そしたら、文房具屋の角まで悠子を送っていく」

 悠子の家からは夕日が見えないことを私はいつも気にしていた。あそこからは朝日も東側の市営住宅が邪魔して見えない。

「仁美ちゃんのお母さん、怒っているやろね」

 ずっと気にしていて気にし過ぎて言えなかったのだろう。小さな声で言った。

「そんなこと、悠子は気にせんでええ」

 私には悠子と二人きりのお祭りへの期待が膨らみかけていた。


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