第29話 妹
◇
すごく勇気がいった。
目の前のこの子に「私があなたのお姉さんよ」と言ったらこの子はどう反応するのだろうか? この子の運命を変えてしまわないだろうか? 不安ばかりが私の頭を過ぎった。
でも悠子は私に言った。
「お姉ちゃん・・」と小さな声で。
一度、その言葉を聞いてしまうともうダメだった。感情が奔流となって流れ出していた。悠子はおそらく私が自分より年上の女の子に見えたせいで言ったのだろう。
それにお互いに着ている服装があまりにも違うせいかもしれないと思うと悲しくなる。
幼かった悠子は駄菓子屋にいる悠子のおばあちゃんの傍にいた。
「お姉ちゃんもお菓子食べる?」
悠子は店の駄菓子を私に差し出した。まだ悠子が今のように店番をする前のことだ。
悠子が私の妹であることは悠子のお母さんのお母さん、祖母である人から聞いた。
その頃、私はいつも寂しかった。家は広くてまわりの人もみんな優しく私を扱ってくれた。
それなのにどこかおかしい。父も優しいし、母も優しい。けれど三人揃うとダメだった。
何かのきっかけで必ず両親の喧嘩が始まる。
そして私はいつものように泣き出す。泣いた後には父と母が仲良くなって欲しいと思う気持ちとその原因を知りたいと思う気持ちが毎日のように残った。
諍いの絶えない父と母の口論を幼かった私はずっと聞いていた。父と母の溢れる言葉の中に「下のアパート」「オガワ」とか「浮気」「駄菓子屋」とかの言葉があることを私は聞き逃さなかった。
試しにお母さんに「駄菓子屋に行ってきていい?」と言うと「だめよ、あそこにあるのは汚いものばっかりよ、仁美のおやつは駅前のスーパーで買ってくるから」と母は返した。
私は別に商店街の駄菓子屋と言ったわけではない。それなのに母の反応は異常だった。
子供心にもあきらかに触れてはいけない話だとわかる。
恋愛もののテレビドラマを見たりしているから、男の人ってお母さん以外の人を好きになったりするものなんだ、とある程度は理解していたつもりだった。そのことに「浮気」と言う言葉が使われることも。
私は母との約束を破り商店街の駄菓子屋に行った。
駄菓子屋は商店街の中でもひときわ小さく奥のレジ近くの椅子におばあさんが一人座っているだけだった。
おばあさんは私が来ているのを見つけると「香山のお嬢さん?」と驚いた表情を見せた。
そして「ここはお嬢さんのような人が来るところではないよ」と続けて言った。
私はおばあさんの言葉を無視して「これ頂戴」と言って近くにあったガムをレジに持っていき買った。精算を済ませると私は店をあとにした。
もうわかった。
私を見たおばあさんの表情を見て思った。あの人は何かを知っている。
その日、私は眠れなかった。
それから何回か駄菓子屋に行ってお菓子を少しだけ買う日が続いた。
おばあさんはその度に明らかに迷惑そうな表情を見せた。私はおばあさんがそんな顔をする理由が知りたい。
時々、おばあさんの横には私と同じ年位の女の子がおばあさんと戯れ合っていた。
私が店に入ってきたことに気づくと、おばあさんはその子に奥に入るように言ったのだろうか、その女の子は店の奥に隠れるように行ってしまった。
その時はまだその子が悠子だとは知らなかった。
そして何度か駄菓子屋に来ているうちに同じ年頃の男の子の言葉を聞いてしまった。
「妾の子のねえちゃんの方がこんな所に何の用事や! お嬢様はこの店の駄菓子なんか不潔や言うて食べられへんのんとちゃうんか」
その子は後で同じクラスになって知ることになった薬局の息子だった。
駄菓子を買いに来たらしいその男の子は私の方を見ると何でも知ってるんだぞ、というような表情で言った。すごく不快な言葉だったが、「妾の子のねえちゃん」という言葉が頭に残った。
「妾」・・そして「ねえちゃん」って、どういうこと?
色々考えていると、おばあさんがいきなり椅子から立ち上がった。
「こらっ、薬局のぼん、ええ加減にせんかいっ!」
おばあさんの怒鳴る声が店の中に響いた。
「意地悪ばばあっ、もうこんなところ来るかいっ」おばあさんに叱られた男の子は出ていった。おばあさんががっくりと肩を落としたように椅子に座ると、
「私が妾の子のねえちゃんって、どういうことですか?」と訊ねた。
「香山のお嬢さん、ごめんなあ・・もう隠しきれへんなあ」
おばあさんはいつもと違う口調でそう言った。
おばあちゃん、ちょっと待ってっ、隠しとって。なんも私に言わんといて!
「どのみち誰かから聞かされるんやったら、私が・・」
おばあさんの真剣な表情を見て何かわからないことを知るのが怖くなった。
帰ろう・・そして、もうここには来ないでおこう、と思ったその時、
「さっきの子、あんたの妹や」おばあさんはポツリと言った。
だから言わんといてって言ってるのに・・
えっ、妹?
私に妹がいるの? 何でこんなところに?
私のお母さん、もう一人、生んでここに預けてるの?
「悠子っていうんや。あんたと同い年や」
名前は悠子って、誰が名前つけたん? 同い年って双子?
一気に考えて頭が混乱した。
「同い年やといっても、お嬢さんの方が少し年上やから、あんたがお姉さんやけどな」
私、お姉さんなの?
「まあ、そこに座り」おばあさんは近くのパイプ椅子を指した。
「お嬢さんが座るような所やないけどなあ、勘弁してな」
私はそれからおばあさんの長い話を聞くことになった。
その間、何度かお店に子供がお菓子を買いに来て、おばあさんはその都度、話の腰を折られ「どこまで話たんやったかな」と言っては「そうそう」と言って同じ話も繰り返したりした。
一度にこんな長い話を聞いたのは生まれて初めてのことだった。
父の昔の浮気の話。アパートに住む悠子のお母さんの話。お母さんには近くに実の兄がいること。私の母が悠子のお母さん、そして悠子に対しても憎しみを抱いていることも。
長くわかりにくい話だったけど、今までの父と母の会話を繋げると次第に納得がいくようになった。
「お父さんにも会えず、たぶん、あの子、きっと寂しい思いしとるやろなあ」
私のお父さんのことだ。同じお父さんなんだ。でも、あの子の方は会えないんだ。
「お互いの母親が意地張ってるんや思うけどな。あまりに身分が違うからな」
身分って? 悠子の家、貧乏やったら、うちのもん分けてあげるよ。
「お嬢さん、同情はしたらあかんで」
そうなんだ。それは同情なんだ。
「あんた、いや、香山のお嬢さんが自分のお姉さんやとわかっても、あの子、苦しむだけや。香山の家には絶対に行かれん」おばあさんの言うことが次第にわかってきた。
あの子は私の妹は私とは違う景色を見て育ってきたんだ。
「それでも、あの子に自分がお姉さんやと言いたかったら、明日、店においで」
私は頷いた。
「心配せんでも、香山の家にも、あの子の母親にも言わん」
私がお辞儀をして立ち上がった時にはもう店に入って来た時と違って、私は一人ではないという思いで一杯になっていた。
私は店を出て商店街から自分の住む高台に向かった。
家に帰るとお母さんが「こんな遅くまでどこ行ってたの?」と聞かれたけど返事をせず自分の部屋に向かった。おそらくお父さんともしばらく話せそうにない。
部屋の窓から悠子の住むアパートが崖の下に見えた。一番向こう側の部屋だ。よく見える。悲しいほどよく見える。今まで気にも留めなかった場所だ。
こんなに近くにいたのに気づいてあげられなかったなんて。
すごく長い時間が二人の間を通り過ぎていたんだ。
二人とも同じ年で、同じ学校で、同じお父さんで、こんなに近いのに違う風景を見ながら過ごしてきて、二人の間は遠すぎる。
そして翌日、私は店に来た。
妹に・・悠子にいつか私と同じ景色を見せてあげたい、そうすれば通り過ぎた長い時間
を少しでも縮められるかもしれない、そんな思いだった。
おばあさんは私の決意した表情を見ると、
「ほら、悠子、出てき」
おばあさんが店の奥に向かって言うと、奥から「悠子」と呼ばれた女の子が小走りで出てきた。はじめて近くで見る悠子の顔は可愛かった。すごく・・
その手には私にくれるつもりなのか、駄菓子が握られている。
悠子のいる場所だけ少し明るく見えた。
そう、私はもうとっくに決めていた。
私の一言で将来この子が苦しむことになるのなら、私も一緒に苦しんであげる、と。
そして、悠子に一度きり言おう。
「私、あなたのお姉さんよ」と私は悠子に言った。
これで最後だ。これから先の私は悠子にとって同い年の「仁美ちゃん」になる。
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