第215話 テアトラ合衆国編 アーキャリーと盲目の戦士

濡れた冷たい石の床。




バリストリング城の牢は、




隙間風が吹いて寒い。




高原だからだろう。




どこからか悪臭も流れてくる。




「この辺の人間じゃないですね」




自分以外に誰もいないと思っていたので、




急に声がしてアーキャリーは驚いた。




うす暗い中、目を凝らして辺りをよく見ると、




壁に鉄格子のある窓があった。




隣の牢と繋がっているのだ。




恐る恐る覗いてみると、




向こう側の壁に男が腰かけていた。




僅かな陽の光で顔が見える。




40代くらいの男だ。




布を巻いたような簡素な白い服を着ている。




男がこちらを見た。




「ふむ、人間じゃないと言ったが獣人……




羊人族ですか」




「あなたは……?」




「罪なき一般人ですよ……」




そこでアーキャリーは気が付いた。




この男は盲目だ。




顔は動いても青く濁った目は一切動かない。




「……あ、あの……目、見えないんですか?」




そんな人が牢に入れられる理由とは……。




というか私の事をどうやって認識したんだろう?




アーキャリーは眉をひそめる。




「視界は25年前に失った……




だが光は失っていません」




男はナシッドと名乗った。




「私は精霊の加護を信じてます。




信じれば精霊も答えてくれます」




たしか精霊信仰はナザロ教……。




オスカー様が発行した宗教の本に書いてあった。




挿絵はベリカが描いていて……。




「あなたは? 精霊の加護を信じますか?」




ナシッドは楽しそうに訊いてきた。




「私は十神教なので……」




「ふむ、それもまたいい選択。




時に、アーキャリーさん。




あなたは脱出を企てていませんか?」




ドキリと心臓が跳ね上がる。




「……なぜ分かるのですか」




「目は見えないが、心で見えるのです。




頭にイメージが流れてくる。




ここから町までの逃走経路は把握しています。




時間さえ合えばそれほど難しくないはず。




しかし、まずこの壁を壊す術がありません。




いや、なかったと言うべきか、あなたが来るまでは」




ナシッドはそう言うとどこか余裕を見せて笑う。




「……ナシッドさん、あなたは何者ですか?」




「自由を求めて戦う戦士です」












その日の真夜中、アーキャリーは機械蜂を使い、




壁を爆破した。




ナシッドは牢内の窓の鉄柵を取って、




こちらの牢に入ってきた。




「時間をかけて削っていました」




壁の向こうは城の小広場だった。




「ここからは私の出番です。




ついてきなさい、アーキャリーさん」




「はい」




真っ暗闇なので、




アーキャリーでさえ全力疾走は躊躇われるのにも関わらず、




ナシッドは盲人とは思えない動きで広場を駆ける。




本当は見えてるんじゃないかな……。




いやいや、人を疑うのはいけない事。




アーキャリーは一人頭を横に振る。




二人は兵舎から飛び出てきた隊列を柱の影に隠れて見送り、




賑やかしくなった城内の喧騒から順調に距離を稼いだ。




「ナシッドさん凄いですね。まるで見えているみたいです」




「種明かしするとですね、私は耳が人の数十倍いいのです。




反響してきた音の波が、




人やモノや建物の輪郭を心に投影するのです。




まさに精霊から授かった力……




ナザロ教は素晴らしいです。




あなたも改教しませんか?」




「い、いや私は……」




「ははは、冗談です。




……む、来ますね、少し下がって下さい」




巡回中の兵士達が、




塀に設置してある松明の明かりの中に入ってきた。




ナシッドは迷いなく走り出し、




槍を持つ兵士二人をしなやかな体術で、




あっという間に叩きのめした。




それを見たアーキャリーは、




アーシュ達ググルカ族の戦闘術を思い出した。




相手の関節を取って最小の動きで制圧する……同じ類だ。




槍を手に入れたナシッドは、




「これで百人力です」と少年のように笑う。












明け方に無事、町についた二人は、




ナシッドの知り合いだという男の経営する娼館に入った。




「こんないかがわしい所ですみません。




取り急ぎちゃんと休める場所はここしかなく……」




「いえ、ありがとうございます。




脱出できただけでも奇跡です。




ナシッドさんに出会わなければ私は捕まっていたでしょうし」




「しばらく横になって休んだ方がいい。




安心して下さい、お腹の子の心音は正常ですから」




「……知っていたのですね」










目が覚めるともう日は西に傾きかけていた。




布で仕切ってあるだけの部屋の出入り口から、




仕事前の女たちによる喧騒が聞こえてくる。




ここは四階の部屋で、遠くに幽閉されていた城が見えた。




窓から入ってくる心地よい風を感じながら、




アーキャリーはお腹に手を添えた。




オスカー様、この子は私が守ります。




そう小さく呟き、ベッドから出た。




とりあえず逃げ出せたが、




北に帰る方法や、




追手に見つかる危険など、




考えることはたくさんあった。




ここは幽閉されていたバリストリング城の城下町。




今頃ニコラは私の事を血眼になって探しているに違いない。




その時、窓の外からブーンと低い音が聞こえた。




目をやると大きな黒いトンボが空中で止まっていた。




一瞬だけ目が合った時、青い光が瞬いた。




何だろうと思っていたらトンボは離れていった。




「起きましたか」




振り向くとナシッドともう一人、




ずんぐりとした男が立っていた。




「この人はロハ・シャシム。




私の仲間でここの主人です」




「粗末な寝床で済まないね。




身体が休まるまでゆっくりするがいい」




強面の人相とは対照的な優しい声で、ロハは微笑んだ。




「ありがとうございます。でもあの……」




「心配はいらない。キトゥルセンには我らが送り届けます。




その代わり、オスカー王子との会合を取り持ってもらいたい」




「どうして知っているのですか!? 何も言っていないのに」




アーキャリーは驚きの声を上げた。




「言ったでしょう。私は耳がいい。




牢の中からルークスウルグ家のバカ息子の声を聴いていたのです」




なるほどと納得したアーキャリーは、




気になっていたことを質問した。




「あの、あなた達は……」




「ロハさん! 店の前に兵士が!」




急に部屋に若い娼婦が飛び込んできた。










娼館の入り口には50名以上のテアトラ軍兵が陣取っていた。




その中心には藍色に輝く豪華な甲冑の姿。




「まずい。ありゃ魔剣使い……ブルザック将軍だ」




「全員武装してここを死守しろ!




女たちは先に地下から逃げろ!」




ナシッドとロハは窓の外を見下ろしながらそう言うと、




部屋から飛び出した。




アーキャリーは娼婦の一人に連れられ階段を駆け下りる。




どうやら地下の隠し通路から脱出できるらしい。




狭い階段をあられもない衣装の女たちが、




上へ下へ駆け抜ける。




その時、外から怒号が聞こえてきた。




戦闘が始まったのだ。




一階に着くと、突撃してくるテアトラ兵を、




どこにいたのか、武装したたくさんの男の戦士たちが、




弓で防衛していた。




そこでここはただの娼館ではないと知った。




頭を下げながら厨房の床に掘られた脱出口を降りようとした時、




突然、地面から、壁から、勢いよく植物の根や蔦が生えてきた。




「うわあ!」




「きゃあ!」




「なんだこれ!」




あっという間に周囲は植物で覆われ、




締め付けられた柱や壁に亀裂が走る。




ギシギシと天井が揺れ始めた。




「ヤバい、建物が崩れる!」










女たちに連れられ外に飛び出したアーキャリーは、




今まで自分がいた建物が、




巨大な植物の根に絞め壊されるのを見た。




粉塵で視界が悪いが、周辺の住民はとっくに逃げ出したようだ。




「……いたな」




大柄で筋骨隆々、




黒く長い髪を後ろで結んだ色男のブルザック将軍は、




アーキャリーを確認して〝魔剣モスグリッド〟の刃先を向けた。




その間で兵士と男たちが斬り合っている。




「小娘一人に逃げられるとは……




ルークスウルグ家もいよいよ終いだな」




ブルザックが魔剣を地面に突き刺すと、




物凄い勢いで植物が生え始めた。




それらはすぐに成長し、




数本の枝や茎や蔦がまとまって、




鞭のように、あるいは触手のように、




アーキャリーに向かって来た。




だが途中で植物の触手は真っ二つに切られた。




「アーキャリーさん、逃げなさい」




立ち塞がったのはナシッドとロハだ。




「で、でも……」




向かって来た数本の触手を、




二人は見事な剣技で再び斬り落とす。




「ほう、やるなお前たち。少し遊んでやろうか」




ブルザックは不気味に微笑む。




「我らは反〝聖ジオン教〟組織【ナルヴァ旅団】




もしも我らが倒れたら……




ジャベリン自治区の〝リリンカ〟に会え」




ロハは前方を向いたままそう語る。




「行きなさい!」




殺気が混じるナシッドの声に覚悟を感じたアーキャリーは、




その場から駆け出した。

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