第189話

 シヴァンシカ・セスが唐橋厩舎にやって来て数日。良く働いていた。ちなみに、彼女は騎乗依頼を受けたと思っている。

「マキナ!オナカスイタネ!」

「弥刀さんにご飯作ってもらおう!」

 依頼主とは知らないまま、御蔵まきなに接しているし、まきなも同僚だからと多少の無礼は構わずにいる。

「いいの?」

「え、何が?」

「シカよ。何も知らないのはマズくない?」

「正直、言うタイミングがねー」

「まあ、普通は知ってて当然だけどさ」

 霧生かなめも若干、ヒヤヒヤしながら様子を眺めている。今更、無礼があったところで降板劇に繋がるようなまきなではないが。

「契約書を見直しても、日本語が読めないだろうし。読めても有限会社桜牧場って名義だからわかんないよ」

「いや、あの子ならあんたの名前をはっきり聞いてる。その上でわかってないわ」

「それは、そうだね・・・」

 苦笑いのまきなとかなめは、本人の能天気さを羨ましく思い、互いの顔を見合わせた。


 次の日、服部隼人が栗東トレーニングセンターに復帰した。

「三枝厩舎、服部隼人です」

「1年半、大変やったな。いきなりフィエルテに乗れる幸運を噛み締めないとな?」

「は、はい」

 そのフィエルテはまきなの肩に頭を乗せ、寛いでいた。

「大人しいんですね」

「まきながおるからな。弥刀にも従わんことのが多い。病み上がりには苦労するで?」

 まきなから服部にレクチャーがあった。

「鼻の下を手の甲で擦る・・・?」

「うん。で、手の甲をゆっくりハナ先に持ってくの」

 言われた通りやってみる。ちなみに、弥刀はこの時点でそっぽ向かれている。新たな匂いを差し出されたフィエルテは反応を示した。

「あ、良い感じ」

「えぇ・・・?」

 目線が完全に明後日を向いている。まきなが言うには、これでも関心を示した方らしい。

「ゲンちゃん、ほら。この人に乗ってもらうんだよ?ちゃんとご挨拶しないと」

 ケンネルという母の子、牡馬なのでゲンちゃんらしい。やがて、横を向いた。散々、袖にされた調教助手の唐橋弥刀が野次る。

「こら、フィエルテ!あんたは私の鞍を拒否して別の男を取るんか!?」

「弥刀さん、言い方・・・」

 ギャーギャー煩い弥刀を他所に、服部はフィエルテに乗り込む。

「おぉ・・・?」

 馬に跨がったのは実に1年と8ヶ月ぶりだ。デビューして1月、20鞍と経験しないまま、療養に入った。そして、その馬たちにはこんな感動は無かった。

 何か大きな重賞のゲートに入っている自分を想像し、胸が高鳴る。不遇を囲った、深く沈んでいた心が晴れやかに再び沸き立つ。そんな気分になった。

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