第106話

「3億円、ですか…」

「ええ」

 御蔵まきなはいかにも勝ち誇った、といった風なユングフラウ・ドーベンに呆れ半分、感謝半分で言った。その肩には、クロカゼが鼻を載せている。

「経費込みでは…4億円を超えてくるのかしらね?」

 税込み価格3億3千万円。馬の輸送費は空輸だと一機丸々のチャーター便にもなるため、1頭で何千万円の世界だ。人間を運ぶのとはわけが違った。

「すごい馬になっちまったなあ…」

「おい、佐藤坊。本当にお前じゃないんだな!?」

 呆気にとられている佐藤慶太郎に、金子学が確かめるように突っかかっている。

「うん、俺はしばらくいっちゃんとは連絡とってないし…御蔵のとこにこんなすごい馬がいるとも知らなかった」

「それもどうかと思うが…まあええか。おう」

「それに、乗るのはジャンヌだから、俺には元々縁がない話だよ」

「はい?」

 金子は驚いたように佐藤と、その傍にいたジャンヌを見る。

「お前さんは乗らんのか?」

「馬がね、俺とは縁がないって言ってるような気がする」

 その馬、クロカゼは未だにまきなの肩に鼻先を載せてくつろいでいた。その様子を金子は横目に見て、ジャンヌに問う。

「乗るのはお前さんかい?」

「オーナー次第です」

「まあ、そうなんじゃろうけど…」

 金子は戸惑い半分に佐藤に問いかける。

「いや、見ての通り、クロカゼは…あの馬は、かなりのモンだ。お前さんがダービー取ったクゥエルにも似とる。どうなんや?」

「まあ、似てるけど…クゥエルはクゥエルだよ。あの馬とは違うから」

 そのクゥエルはダービー制覇後、迷走してマイルなどを使われていたものの、秋からは天皇賞、JC、有馬記念の王道・秋古馬3冠路線に復帰することが決まっていた。

「俺に初めてダービーを取らせてくれた馬だ。もう一花咲かせてやるさ」

「アレもかなり迷走したからの。ワシを引退させたほどの馬や、盛り返してくれらな困る」

 ジャンヌは話を黙って聞いていたが、合点がいったようで金子をじっと見ていった。

「ジャパンの、レジェンド!」

「おう、なんじゃい、パツ金ねーちゃん」

「ジャンヌ、です!」

「知っとる。世界でご活躍中の騎手様が何の用や?」

「慶太郎サン、がいつもすごい騎手だと!」

「おう」

「60歳でも、乗ってた、と…なぜ、辞めたのですか?」

 金子にとっては核心を突く質問だった。

「え、いや、なんでってジャンヌさ。息子さんのためだって…」

「なんだか、金子サン、すごく楽しそうだから」

 ジャンヌにとって、騎手から離れた自分を想像することはできない。

「なんで、って…」

 金子はしばらく考え込んだ後、言った。


「ま、満足したんやろ。今の暮らしもそう悪くないしな」

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