第7話 ぜぇんぶ元に戻るわぁ〜

 浅葱あさぎの頭の中によぎった新たな問題。浅葱は焦った様にそれを口にする。


「あの、大お師匠さま、僕は今この世界に転移していますけど、元の世界で僕の扱いはどうなっているんでしょうか。そう言う事はお判りになりますか?」


「ええ、勿論よぉ。そう言う事も含めて先代から引き継ぎをしているわぁ〜。あのねぇ、これはアサギちゃんにとってはショックなのかも知れないんだけどもねぇ〜」


 チェリッシュはそう言いながら、まなじりを下げる。そしてゆっくりと口を開いた。


「この世界に転移した時点でねぇ、アサギちゃんは元の世界ではぁ、遺伝子や細胞レベルでいない、要は最初から存在しない事になっているのよぉ〜」


「え」


 浅葱はその事実をすぐには理解出来なくて、間抜けな声を上げる。


「それって」


「ええ、本当にねぇ、言葉の通りなのよぉ」


 浅葱はその言葉を飲み込むのに、ある程度の時間を要した。チェリッシュはその間、言葉を挟まずに待っていてくれた。


「じゃ、じゃあ今この瞬間、元の世界では僕はそもそも最初からいない事になっていて、ええと、僕はひとりっ子だから、両親に子どもはいない事になって、職場でも僕は最初からいないって事になるんですか?」


「ええ。そう言う事よねぇ」


「そうですかぁ……」


 浅葱は呆然と言う。


「それは確かにショックかも。ああ、でも、だったら両親とか友だちとかが、僕がいなくなった事で心配したりする事が無かったって事なんですよね? それは良かったのかも」


 浅葱が言うと、カロムが呆れた様に「おいおい」ととがめる様に言う。


「アサギが良い奴だって事は嫌って程知ってるさ。けどよ、そこは人の事じゃ無くて、自分の事を案じるところだろ」


「そ、そうかも知れないけど、何だかそっちに安心しちゃったんだよ。だってずっと親とか友だちとか、そっちが気になっちゃってて」


 浅葱が焦る様に言うと、カロムはまた呆れた様に、今度は苦笑する。


「ま、それがアサギだって言われればそうなんだけどよ」


「ご免」


「謝るところじゃ無いさ。それはアサギの良いところなんだからよ」


「ありがとう」


「ですがそうなりますと、アサギさんが元の世界に戻った場合、どうなるのですカピ?」


 ロロアの言葉に、「そうだ」と浅葱とロロアは眼を合わせる。


「それはアサギちゃんがいた元の状態に戻るわよぉ〜。そう言うものなのよぉ〜。確かにアサギちゃんの世界とここは異なる世界なんだけもぉ、そこは変に辻褄が合っちゃうものなのよぉ。異世界でも不思議と何かが合っちゃっているのねぇ〜。それはアサギちゃんの世界に関わらずねぇ。勿論まるで解明はされていないんだけどもねぇ〜」


 チェリッシュは言うと、沈んだ様子になってしまう。


「ご免なさいねぇ〜、そう言う事を調べるのもぉ、代々続いて来た大師匠と呼ばれる私たちのお仕事なのぉ。でもどうしても難しくてぇ、眼の前の事に追われて後回しにもなってしまったりねぇ〜……」


「い、いえ、そんな。大お師匠さまはお忙しいんですから」


 そんなチェリッシュに浅葱は慌ててしまう。


「じゃあ、アサギちゃんの世界と繋いでみましょうかしらねぇ〜」


 チェリッシュがそう言って立ち上がると、浅葱はまた焦ってしまう。突然で心の準備が出来ていない。


「あ、あの」


「大丈夫よぉ〜、今直ぐ戻るだとかぁ、そんな事じゃあ無いのよぉ〜。大丈夫だとは思うけどぉ、アサギちゃんが帰りたいと思っている場所にちゃんと繋がるかどうか、試してみるだけだからぁ〜。私も初めての術行使だからねぇ〜」


 言い置いて、先程出て来た奥へと入り、出て来た時には両腕で何かを抱えていた。長方形の浅い木の箱である。


 それをテーブルに置いてふたを上げると、中にあったのはきちんと折り畳まれた茶色い布だった。チェリッシュが両手を広げてそれを開くと、縦長で厚みがあった。


 横の長さは1メートル程だったが、縦の長さが2メートル近くもあるので、チェリッシュの高い身長でも、持ち上げないと床をってしまう。


 チェリッシュは画鋲がびょうを使って布を壁に固定する。


「これがねぇ、異世界へと繋がるお道具なのよぉ〜」


「布、ですよね?」


 浅葱には、それはただの布にしか見えなかった。カロムも首をひねっている。だが横でロロアが眼を見張り、その表情は輝いていた。


「凄いのですカピ……! とても高度な術式が組み込まれているのですカピ! 僕ごときでは到底理解出来ないのですカピ!」


「いいえぇロロアちゃぁん、この布の術式が見えるだけで凄いのよぉ〜。術師の素質は勿論なんだけどぉ、優秀な子じゃ無いとこれは見えないのよぉ。解析なんてされちゃって悪用されない様にって意味もあるんだと思うわぁ〜。アサギちゃぁん、カロムちゃぁん、錬金術師ってねぇ、不思議なんだけどもぉ、優秀な子程内面も素晴らしいのよぉ。ロロアちゃんも、そうねぇ、レジーナちゃんもとても良い子でしょう〜?」


「はい。ロロアには勿論、レジーナさんにもとても良くしていただきました」


 浅葱が応えると、チェリッシュは満足げに頷いた。


「じゃあ繋いでみるわねぇ〜」


 チェリッシュは布の前に立ち、布に両のてのひらを当てて眼を閉じると、すうと小さく息を吸う。そして呟く様に何かを唱え始めた。


 何を言っているのか、浅葱には全く理解出来ない。この場で出来る者がいるのなら、それはロロアだけだろう。


 ロロアを見ると、その一言一句を聞き逃すまいとする様に、真剣な表情で耳を傾けていた。


 やがて静かになると、チェリッシュが振り向く。


「アサギちゃぁん、こっちにいらっしゃぁ〜い」


 言われ、浅葱は立ち上がってチェリッシュの元へ。するとチェリッシュは横にずれて、浅葱に場所を譲る。


「この布の前に立って、両手を布に当ててねぇ〜」


 言われた通りにする。すると浅葱にはただの布にしか見えないそれに、黒色のドアがじんわりと浮かび上がって来た。浅葱は驚いてその様子を呆然と眺める。それがすっかりと姿を現したら。


「はぁい、手を離して良いわよぉ〜」


 手を離すと、今度は違う景色が浮かび上がって来る。最初は薄かったので判別出来なかったが、はっきりすると、それは見覚えのある風景だった。


「あ、ここ!」


 それは、浅葱が暮らしていた街にある、小さな社に聳え立つ御神木ごしんぼく。そう、浅葱が異世界転移をするきっかけになったと思われる、あの社の御神木だった。


 注連縄しめなわが付けられているところは、浅葱がこの世界に来た夜と同じだ。だが太さが違った。


 あの夜、浅葱は御神木がいつもより太いと感じた。どうやらそれは勘違いでは無かった様だ。今、御神木は浅葱の記憶の通りの太さだった。


「アサギ、ここは何処だ?」


 カロムが覗き込んで来る。浅葱は少しずれてカロムが見易い様に動いた。ロロアも足元に寄って来ていた。


「僕の世界だよ。家の近くの場所なんだ。この御神木、木に触った時に眼の前が真っ暗になって、気付いたらロロアとレジーナさんに助けられていたんだ。その時、木はもっと太かった。今は元に戻ってるみたい」


「成る程ねぇ〜」


 浅葱たちの後ろから御神木の景色を見ていたチェリッシュは、浅葱の言葉に頷いた。


「その時だけその木がこの世界と繋がって、不思議な力が宿っていたから太く見えたのかも知れないわねぇ〜。不確かな上にこんな事しか判らないからぁ、申し訳無いんだけどもぉ〜」


「いえ。でもそうですよね、そうとしか考えられないですよね。光ったりはしていなかったんですが」


「大お師匠さま、これはこの術具に入れば、アサギさんは元の世界に帰れると言う事なのですカピか?」


「そうよぉ〜」


「今、アサギさんの世界では、アサギさんは存在そのものがいない事になっているとの事でしたカピ。戻られた場合、どうなるのですカピか?」


「ぜぇんぶ元に戻るわぁ〜。アサギちゃんは元の世界で元の生活に戻るのよぉ〜。この世界に来る直前から繋がるのよぉ〜」


「その場合、アサギさんの記憶、この世界の記憶や、僕たちこの世界の者の記憶はどうなるのですカピか?」


「アサギちゃんの記憶は消えるわぁ〜。それはもう綺麗さっぱり! でもねぇ……私たちはアサギちゃんの事を忘れないのよねぇ〜」


 そう言って、チェリッシュは寂しげな表情になった。


「そんな」


 浅葱は愕然がくぜんと声を漏らし、咄嗟とっさにロロアとカロムを見る。ふたりは眦を下げて、悲しげな笑みを浮かべた。

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