第10話 貧血を治す為のご飯だった!

「今帰ったよ」


 そう言って帰って来たのは、マリナでもマルスでも無く、中年の男性だった。


「お前さん、お帰り」


 トマト煮込みとスープを作り終え、居間兼食堂で珈琲コーヒーを飲んでいた浅葱あさぎたちは、ぺこりと頭を下げて男性を出迎えた。


「おじさん、お帰り」


「おお、カロム。いらっしゃい。済まないな、忙しいだろうに」


「いやいや。今日は帰り早いんだな」


「朝が早かったからな。ああ、こちらが錬金術師さまと助手さんだな」


 かしこまって座る浅葱とロロアに視線を向けると、深く頭を下げた。


「ルビアの夫のオーランドです。この度は妻と娘の為にお骨折りくださり、本当にありがとうございます」


 何とも丁寧ていねいに礼を尽くされて、浅葱とロロアは慌てて立ち上がる。


「とんでもありません。浅葱と言います。こちらこそお節介だとは思うので、ご迷惑になってやしないかと」


「そうなのですカピ。こちらこそ何度もお邪魔をして、申し訳無いのですカピ」


「いえ。お陰さまでマリナも食べられるものが増えている様で、本当にルビア共々感謝しているんですよ」


「そう言っていただけたら嬉しいです」


 そう言って浅葱とロロアが頭を下げたその時。


「ただいま!」


「ただいま」


 マリナとマルスが帰って来た。頭を下げ合う父親と浅葱たちを眼にして、マリナは「どうしたの?」といぶかしげに首を傾げる。


「きちんとお礼をしておかねばならないだろう。お前たちがお世話になっているんだから」


「それはそうなんだけど、帰って早々父親のそんな姿見せられたら吃驚びっくりするよ。錬金術師さま、アサギくん、カロム、今日もありがとう」


「ううん。お役に立てていたら嬉しいよ」


「凄っごくお役立ちだよ! お肉なんて本当に久しぶりに食べた。しかも美味しかったし! あんなお肉もあるんだね」


 鶏のささみの事である。


「今日のも多分食べられると思うよ。脂身が駄目なんだもんね」


「そうそう。脂の無いお肉があるなんて知らなかったから」


「じゃあ支度をしようかね。後は温めるだけだから、私だけでも大丈夫だね」


「お手伝いします」


 ルビアに続いて浅葱も立ち上がる。


「あら、じゃあお願いしようかね」


 そうして並んで台所へ向かった。




 テーブルに着くオーランドたちの前に並べられたのは、2種のトマト煮込みと野菜たっぷりのスープ。マリナへのトマト煮込みはヒレを使ったひと皿だけを。


「どうして私だけひとつ?」


「もう一皿は脂身が多いお肉を使ってるんだよ。まだマリナには難しいと思う」


「ああ〜そうかぁ。でも何か悔しいなぁ」


 マリナが口を尖らすと、カロムが「だったらさ」と口を開く。


「徐々に脂身に慣れて行ったらどうだ。正直脂身に関しちゃ、無理に食わんでも良いとは思うけどよ」


「そうかも知れないけどぉ。あ、じゃあ私のこれは脂身の無いお肉なんだね?」


「そう。豚なんだけどね、豚にも鶏みたいに脂身の少ない部分があるんだよ。だから試してみて欲しいと思って。オーランドさんとルビアさんとマルスくんは、食べ比べてみてください。いつもの豚肉に一手間加えたものと、脂身の少ないものと」


「いつもの豚肉? あの脂身が多めのあれか?」


 オーランドがそう行って皿を覗き込む。真っ赤なトマトソースの中から覗く肉の塊。片方がバラ肉、もう片方はヒレ肉だ。


「そうです。食べてみてください」


「じゃあ早速」


 オーランドとルビア、マルスがスプーンを手に、バラ肉をすくい上げ、口に入れた。


「んん!」


「ん!」


「お!」


 三者三様の声が上がる。その眼は綺麗に見開かれ、輝きを帯びていた。


「いつもよりあっさりしてる。脂の量が程々で良いな!」


「本当だね! 脂の部分がとろっとしてるし、美味しいね!」


「うん。いつもは脂の部分が固めな感じがしてたんだけど、これは柔らかいね。ソースも脂ぎってなくて美味しい」


「……あのさ、やっぱりいつもの煮込み、美味しく無かったかい?」


 オーランドとマルスの反応に不安になったのか、ルビアがおずおずと口を開いた。ふたりは自然に視線を交わすと、「ううん」と苦笑する。


「美味しく無い訳じゃ無いんだ。ただ少しな、あの、な」


「う、うん。ちょっと脂っこかったって言うかさ」


「そうかい。やっぱり茹で溢しって大事なんだねぇ」


 ルビアがそう残念そうに言って空を仰いだ。


「「ゆでこぼし?」」


 オーランドとマルスの声が重なる。


「煮る前に茹でて、灰汁と余分な脂を抜いたんだよ。助手さんに教えて貰った方法なんだけどね」


「茹でるだけでこんなに変わるものなのか?」


 オーランドの眼がまた開かれる。


「そうなんだねぇ。実際に食べてみて驚いたよ。本当にありがとうね助手さん。これでオーランドたちに美味しい料理を食べさせてあげられるよ」


「いえ。手間は増えちゃいますけど、頑張ってください」


「菓子作りに比べりゃ楽なもんだろ、おばさん。正直俺らからしたら、菓子作りの方がよっぽど面倒なんだからな」


「まぁねぇ。今みたいに美味しいって言ってくれたら、作り甲斐もあるってもんだけどねぇ」


「言う言う!」


「言うからさ!」


 ルビアの溜め息混じりの口調に、オーランドとマルスが口々に言った。


「そうかい? なら頑張ってみようかね」


 ルビアがニッと口角を上げると、マリナから「ねぇねぇ」と声が掛かる。


「私も食べてみたい」


「う〜ん、そうは言ってもまだマリナにはつらいんじゃ無いかねぇ」


 ルビアは難色を示すが、マリナも譲らない。「食べてみたい!」


「じゃあ姉ちゃん、ほら」


 横のマルスが皿を差し出してやる。


「ちゃんと飲み込めよ。味は美味いんだからな」


「判ってる」


 マリナは言うと、マルスの皿からバラ肉を掬い、緊張からかごくりと喉を鳴らした。


 大きな口を開けて、口へ。もぐもぐとみ、そして。


 「んんん」と涙目になった。


「ご免、やっぱりまだ脂は駄目みたい。味は美味しいのに」


「飲み込めるかい?」


「飲み込む。これで成長出来る気がする」


 何のだ。ともあれマリナは息を止めてまごまごしていたが、どうにかバラ肉を飲み下した。


「アサギくんご免ねぇ。絶対に美味しいのに」


「無理はしないでね。その為にこっちの脂身の少ない部分を用意したんだから」


「うん。こっちいただいてみる」


「じゃあ私たちも」


 マリナに続いてオーランドたちもヒレ肉を口に運ぶ。するとまた、全員の眼が開かれた。


「柔らかい! え、しかも味わい深いし。え? あんな淡白そうなお肉だったのに、こんな美味しかったのかい!?」


「え、これ豚肉なのか? 凄いあっさりもしているんだが」


「うん、うん! このお肉私でも食べられる! 嬉しい! 美味しい〜!」


「噛めば噛むほど甘みが来るんだな、この肉。旨いな」


 大好評である。流石は高級部位、ヒレ肉。


「実は、牛にもこういう脂の少ない部位があるんです。豚で大丈夫なら、牛も食べられると思うんですけど。赤ワイン煮込みとか良さそうですね」


「へぇ、そうなんだ。じゃあ今度作ってみるかね」


「その前にアサギくんに作って欲しいなぁ」


「何だい? 私の腕が信用出来ないのかい?」


「と言うより、単純にアサギくんが作るワイン煮込みが食べたい。お母さんも勉強になるんじゃ無い?」


「そりゃあ確かにそうだけどさぁ」


 ルビアは渋るが、マリナはぐいぐいと来る。


「良いかなぁ、アサギくん」


「勿論だよ。またお邪魔しても良いなら」


「決まり! 日はまた決めようね。ありがとう、楽しみ!」


「全くもう。マリナが厚かましくて申し訳無いねぇ、助手さん」


 ルビアが呆れた様に息を吐くが、浅葱は笑顔のままで応える。


「いえいえ。大丈夫ですから。それに赤肉では、牛肉が1番貧血に良いんですよ」


 浅葱が言うと、「あ」とマリナたちの動きが止まった。


「そうだった。これ、私の偏食へんしょく直すのが目的じゃ無くて、貧血を治す為のご飯だった!」


「そう言やそうだね! 私もすっかりと忘れていたよ」


「確かに偏食は貧血に良く無いですが、まずは貧血を治さなくちゃね」


「忘れないでくれよな、ふたりして。アサギ、今度脂身少ないとこ買って来るからよ、うちでも作ってくれよ」


「勿論だよ。僕もヒレ肉お腹一杯食べたい」


「あら、あらあら、私たちだけでごめんなさいね」


 食べる事に夢中だったルビアが、今気付きましたと言う様に口を押さえる。


「そう言えばこの前もだけど、何でカロムたちは食べて無いの?」


 問われ、浅葱とロロア、カロムは眼を見合わせ、「ああ」と口を開いた。


「とにかくマリナたちに食わせなきゃってそれだけだったな」


「本当だね。ロロア、お腹空いて無い?」


「美味しそうなお食事を見ていたら、少し空いて来ましたカピ」


「じゃあ帰って俺たちも晩ご飯にしようぜ。買い物行って、と」


「良かったらうちにあるもの持って帰っておくれよ。お礼にもならないだろうけど、せめてさ」


「いやいや、大丈夫だからよ」


「まぁまぁ、良いから良いから」


 言うなりルビアは立ち上がり、カロムを台所へと引っ張って行った。


「ははっ、ああなったルビアは誰にも止められない。カロムも観念するんだな」


 オーランドは可笑おかしそうに笑うと、台所のカロムに聞こえる様に声を上げる。すると台カロムの「はいよ〜」と小さな返事が届いた。

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