四六 雑居ビル 弐

 母が父のことを話してくれたのはみくが小学校六年生の時だ。彼女の口から出たのは尊に対する怨みと憎しみだけだった。


 それからせきを切ったように美佐はみくに父の怨みを述べるようになった。いや、実際に母は彼女を否定した、「あなたを産みたかったわけじゃない」「あなたがいたから私の人生は狂った」、「あなたの顔を見るとあの男を思い出すの」など、みくが生まれたことに対するつらみをことあるごとに聞かされた。そして美佐はみくの存在を否定した後、ひたすら謝る。


 それが彼女には耐えられなかった。謝るくらいなら最初から言わなければいい、現に以前は尋ねても答えなかったのだから。つまり、美佐は娘に甘えているのだ。謝っているのも口先だけで本心ではない、当人は本気で悪いと思っているつもりだろうが。


 かく、一日でも早く家を出たかったみくは、中学卒業と共に家を出た。家を出ることも進学しないことも特に母は止めもせずとがめもしなかった。


 彼女は未成年でも雇ってくれる店を転々としながら生活を続けていた。


 そんなある日、当時務めていたクラブに壷内尊が訪れた。当然、未成年のみくを雇っているような店だ、まっとうな商売をしていない。裏社会の人間がひんぱんに出入りするような場所だった。


 そこで萌華は尊に指名された、名前を聞いて母のことを尋ねると父だと判った。彼はなんと彼女に美佐の面影を見ていたのだ。萌華は驚いたが尊はもっと動揺していた。それから、彼はあししげく店に通うようになった。


 間もなくみくは店をやめた、尊の愛人になったのだ。実の父という感覚はなかった。生まれてから十七年、一度も会ったことがなかったのだから当然かも知れない。逆に尊は血の繋がった娘を抱くことに興奮しているようだった。


 彼女にとってそれはどうでもいいことだ、今までも仕事で色々な人間に抱かれてきた。


 重要なのは二つ、一人の男の相手をすれば生活できるようになったという事と、その男には特殊な能力ちからがあるという事だ。


 美佐との関係が悪化してから、みくはアニメの世界に逃げ込む事が多かった。そこにはうっとうしい母親はおらず自由で楽しかった。いつか、そちら側へ行きたいと願っていた。自分でない自分になりたかったのだ。


 だが、夜の店で不法な労働をしている彼女がまっとうな事務所に所属するのは不可能だ。だからあきらめていたのだが、思わぬチャンスが転がり込んだ。


 みくは尊の能力ちからで人気の声優事務所『フューチャードリーム』に潜り込んだ、森川萌華の誕生だ。そして尊の能力で邪魔者を排除しのし上がってきた。


「尊をどうしたッ?」


 もう一度、萌華が問うと、刹那は肩を竦めた。


「霊力を奪われて、幻覚の中で自分がしてきたことを繰り返し自分にされているわ。あなたのママにしたこともね」


 彼女の言葉の意味が理解できなかった。


「解りやすく言うと、精神を壊されて意識不明ってこと。

 あと、警察に捕まったわ。その時、すっぱだかで何も持っていなかったから、身分が特定されたかどうか、あたしは知らない」


 やはり訳が解らない、尊に何があったというのだ。


「何をした? 尊にいったい、何をしやがったッ?」


 萌華の言葉に刹那は眉間に皺を寄せた。


「それはあんたが一番よく解ってるんじゃないの? 人を呪わば何とやら、いつかは自分たちに返って来るのよ。最後の二つの穴にはパパとあんたが入るの、永遠を狙った時点でそれは確定した」


「そんなこと……」


「そんなことあるわよ。違うって言うなら、あんたのパパはどこにいるの? なんであんたの前から姿を消したの?

 それにあんたの殺人未遂の動画もある、呪術と違ってこっちは法で裁けるわ。だからここから逃げ出してもムだよ、森川萌華の声優人生は……いえ、森川萌華という声優は消えて、代わりに誰でもない笹田みくが戻るの」


 笹田みくに戻る。その言葉を聞いて萌華は眼の前が真っ暗になるのを感じた。

 

  イヤ……ゼッタイにイヤだ……ウチは森川萌華。笹田みくなんかじゃない!


「……どと……」


「え? なに?」


「二度と、あんなみじめな生活はイヤだ!」


 萌華はスマホを奪おうと、刹那のマネージャーに飛びかかる。


 そのタイミングでエレベーターのドアが開き、中から御堂永遠が飛び出した。


「グフッ」


 永遠は一瞬で萌華を組み伏せた。


 何とか抜け出そうとするが、しつかりと押さえ付けられ微動だにできない。


  コイツ、格闘技もやってたのか……


 萌華、いや、みくの中に嫉妬の炎が燃え上がる。自分よりも若く、演技力があり、なにより華がある。声優としてだけではなく、霊能者としてもこの女は優れていて、おまけに腕力もあるのだ。


  ズルイ……


 嫉妬を絶望が塗り替えていく、絶対に自分が勝てない相手というのは存在する。尊がいなくなった今、みくが頼れるものはない。


「ムダなあがきはよして。もう、あなたに選択肢はないわ」


 御堂刹那が冷たい瞳で笹田みくを見下ろした。

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