一二 朱理の部屋 壱

 朱理は刹那の枕元にしゃがみ、彼女の手を握って呼びかけ続けていた。意識を保ち続けてくれと叔父から頼まれていたからだ。


 しかし、刹那が朱理の声に反応しなくなってしばらく経つ。


「姉さん、お願い、眼を開けて……」


 叔父はまだ戻らない、電話をしてからもう一時間以上過ぎている。だがそれも当然だ、彼はつくば市にいた、そう簡単には帰って来られない。


 涙が頬を伝う。また大切な人を失うのか、自分のせいで失わなければならないのか。


  わたしは無力だ……


 焦燥と絶望感が心を満たしていく。


 クゥ~ン、と梵天丸は気遣わしげに鳴くと後ろ脚で立ち上がり、首を伸ばして朱理の頬を舐める。


「ボンちゃん……」


  そうだッ、弱気になんてなってられない、それこそ今までと変わらないよ!


 朱理は己を叱咤した。


 まだ刹那は生きている、ならば反応がなくても呼びかけ続けるのだ。自分の声は姉に届いていると信じて。


 朱理は空いている手で涙をぬぐった。


「姉さん、おじさんがもうすぐ帰るよ、だからがんばって!

 元気になったら、おいしいおでんを一緒に作ろう。

 そして……そして……次の仕事はデーヴァの打ち合わせだね。

 今度はだよ……わたしは昴になれるのかな……けっきょく琴美なのかな……

 姉さんはわたしを真那みたいに助けてくれたのに……わたしは姉さんを守れなかったよ……

 暴走したし……昴みたいに強く正しくなれないよ……

 おじさんや姉さんがいないと、なんにもできないんだ……

 ごめんね……姉さん……」


 また、心が折れそうになる。


「おまえは何も悪くない」


 声に顔を上げると、襖を開けて鬼多見悠輝が入ってきた。


 梵天丸が飛びつきじゃれる。


「おじさん……」


「悪いのは油断していたおれだ」


 悠輝は梵天丸を放して頭を下げた。


「ごめん、朱理。おまえをまた危険にさらした。そのせいで庇った御堂が傷ついたんだ。

 人助けどころじゃない、おれが先ずしなければならないのはおまえを守ることだった」


  ちがう、わたしは誰かに守られるんじゃなくて、誰かを守れるようになりたい……


「おまえの傷も魔物のしゆがかかっている」


「えッ?」


 薬師如来真言で応急処置はしたはずだ。


「呪は傷とは別物だ、そっちはそっちで対処しないといけない」


 滲んだ血がすでに乾いている朱理の肩に叔父は手を置いた。


「おまえは熱と相性がいいからな。

 ノウマク・サンマンダ・バサラダン・センダンマカロシャダ・ソワタヤ・ウンタラタ・カン・マン!」


「ウッ」


 悠輝が不動明王のしゆを唱えると傷口が熱くなった。彼が言った通り朱理の験力は炎と相性がいい、そのため彼女は熱に対して非常に強い。


 だからこれだけ『熱い』と感じたのは久しぶりだ。しかし、それは火傷すると言うよりは何かを引き千切られるような痛みに似ている。だが痛みは一瞬で、それが終わると身体が軽くなった。


 刹那のことに気を取られていたが、朱理も調子がおかしくなっていたのだ。


「朱理、服を着替えてこい、おれは御堂を診る」


 クローゼットから新しい服を取り出すと朱理は脱衣所で着替えて急いで自分の部屋に戻った。


 刹那のかたわらに悠輝は寄り添うようにしてしゃがみ、眉間に深いしわを刻んでいた。滅多に見せない深刻な表情だ。


「おじさん、姉さんは?」


 嫌な答えを予感して声が震える。

  

「かなり悪い……しゆがだいぶ進行している。強引に解けば御堂の身体が持たない」


  どういうこと? 姉さんは助からないの……


「正直、おれじゃムリだ」


 眼の前が真っ暗になる。


  そんな……お母さんはハワイだし、おじいさんも郡山にいる。どっちもすぐに来られない……


 叔父が頼みの綱だった。


「なんとかならないのッ。わたし、何でもするから!」


 もうこらえることができない、涙が溢れ出した。


「お願い……お願いだから、おじさん……姉さんを助けて……」


「落ち着け、朱理」


 悠輝は立ち上がり、朱理をなだめた。


「あくまでおれ一人の験力ちからじゃムリだってだけだ」


 朱理は顔を上げた。


「わたしとボンちゃんの験力があれば助けられるッ?」


 叔父は首を左右に振った。


「それでも足りない。だから、お母さんを呼べ」


「ふざけないでッ、お母さんはハワイに……」


「関係ない。例え宇宙の果てにいたって、おまえの心の叫びをお母さんが聞き逃すはずがない。

 だから全力でお母さんに助けを求めろ、必ず力を貸してくれる」


  そんなことが……


 叔父は本気で言っている、それに朱理にできることは他にない。


  おかーさーんッ、助けてー!


 朱理は験力を込め、心の中で母を呼んだ。


  姉さんが死んじゃうッ!


 何度も何度も繰り返し叫び続ける。しかし、母からの返事はない。


「ダメだよ……やっぱりお母さんはこたえてくれない……」


 悠輝は静かな瞳で朱理を見つめている。


「おじさん! このままじゃ姉さんが……」


  うるっさいわねッ、何時だと思ってるの!


「うわぁッ!」


 頭の中に遙香の不機嫌な声が響いた。


「やっと起きたか」


「え? お母さん、寝てたの?」


「そりゃそうだろ、日本よりハワイは一九時間遅れている。向こうは夜中の一時過ぎだ」


 悠輝がケロッとした顔で解説する。


  だから自分で呼ばなかったんだ……

 

 母は寝起きがもの凄く悪い。


「なるほど、随分厄介な状況ね」


 口が勝手に動いて不機嫌な声が出る、遙香が朱理の身体を使っているのだ。


  この感覚、知っている……


 以前、朱理は母の験力で彼女の記憶を追体験したことがある。その時の感覚に似ているが、今の方がもっと生々しく遙香を自分の中に感じる。


「朱理の記憶でどこまで把握した?」


  えッ? わたしの記憶、読まれてるの?


「非常事態だから仕方がないでしょ?」


 また朱理の口を使って母が話す。


「だとしても先に言って!」


「そんな余裕はないわ」


 まるで腹話術みたいだ。


「揉めるのは後にしてくれ。姉貴、それでどこまで解った?」


 母が沈黙する。


「そうね、先ず朱理を襲ったのはただの魔物じゃないわね、式神か憑物か……」


「式神?」


 叔父が眼を細める、心当たりがあるのだろうか。


「打ったのは誰か判るか?」


「そこまではムリ。ただし、死にかけた一体が消滅の間際にしゆをかけたのは判った。これは厄介ね」


「解けるか?」


「あたしをダレだと思ってるの?」


「法眼の娘」


 叔父の言葉に母が不機嫌になるのを感じた。


  おじさん、余計なこと言わないでよ!


「悠輝、カワイイ姪があんたのせいで困っているわよ」


「だからお母さんッ、かたっぱしから心を読まないで!」


「しょうがないでしょ、あんたの中にいるんだから」


「う~」


 とにかく今は刹那を助けるのが先だ、文句は後から言おう。


「朱理の身体ではやりたくないな、まだ呪のダメージが残っているから」


「わかった、おれに取り憑けるか?」


「人を悪霊みたいに言わないでよ!」


御託ごたくはいいから、できるなら早くやってくれ」


 突然、母の存在が朱理の中から消えた。


「う~ん、やっぱり弟より娘の方が相性がいいわねぇ」


 自分の身体のあちこちを見ながら、叔父が母の口調で言った。


 叔父に母の姿が重なって視える。


「験力に問題はないな?」


「問題は無いけど、あんたも式神にやられてんじゃない」


  おじさんも襲われた……?


 どういうことだろう、今日も信者を脱会させにどこかの宗教団体に行っていたが、そこにたまたま呪術師がいたのだろうか? それとも鬼多見家に怨みを持つ者が仕組んだ罠だったのか?


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