第38話 「夕鶴」の記憶②
植村が「井村、今日は悪かったな。イズミちゃんにも申し訳ない」と言った。
そう言われても僕は腑に落ちない。
すると、植村は小声で、
「おそらく、お母さんは、自分が本の読み聞かせの後、自分自身がどうなったか、知るのが怖くなったんだと思う」と言った。
それで、事実を知る前に自らケーブルを引き抜いたのか。
もしそうなら、二度目の交信を行うことは難を極める。
「結局、植村が母親に読み聞かせてもらっていたのは、何の本だったんだよ」
「たしか、鶴の恩返し・・有名な木下順二の戯曲・・」と言いかけると、
キッチンから戻ってきたお母さんドールが、
「『夕鶴』よ」と言った。
あまりにも有名な作品だ。子供を寝かしつけるのにも、情操教育としても良いだろう。
「でも、あの本・・『夕鶴』はどこにいったのかしらねえ」
お母さんドールは頬に手を当て記憶を探っている。
そんな昔の本、植村が幼かった時の本など、残っているわけがないと思いながら植村の方を見た。植村も悲しげに首を振っている。おそらくないのだろう。
読みかけの本は母親の形見ではない。
植村も「引っ越しの時も見かけなかったから、もうないよ」とお母さんドールに言った。
僕が「本屋に行けば売ってるだろう」と言うと、
植村はノートパソコンを開きネットで検索し始めた。
しばらくして植村は、
「おい、井村、俺もブックサイトならあると思ったんだけどな」と言ってパソコン画面から顔を上げた。
「ないんだよ。『夕鶴』はもうどこにも売っていない」声のトーンが悲しげだ。
僕が「中古本ならあるだろ」と言うと、植村は「古本もない」と答えた。
別にそんな本、どうでもいいと思う。
お母さんドールも切実にその本を読み返してあげようとも思っていないみたいだし、植村もそんな子供みたいなことを願っていないだろう。
だがしかし、それは二人の最後の思い出のような気もする。
途切れてしまった思い出。それはそれで放置しておくか、それとも修復したいのか、それは当人たちの自由だ。
「本がない」と言っている僕たちを見て、
突然、お母さんドールがソファーに座り直し、
「本もそうだけど、ねえ、コウイチ、お父さんはどこにいるの」と訊き始めた。
植村も当然ドールの顔を見たが、僕も見た。
そこにあったのは、人間の女の情に満ちた顔だった。
これがAIドールの顔か? さっきより表情が出てきている。
そして、
「ねえ、コウイチ・・タツヤさんは?」と困惑の表情を見せて言った。
タツヤ、というのは植村の父親、すなわちお母さんドールの夫なのだろうか。
いや、違う。
植村の母親の夫だ。
お母さんドールは、何かのたかが外れたように、他のこともしゃべりだした。
「おかしいわよ。お父さんが一緒にいないなんて。それに、この家も、私が住んでいたのはこんな家じゃなかったわ。もっとお庭が広くて、それに、食器も違う」
次々と記憶が蘇っているのか?
まるで実の母親の霊が憑りついたかのようだった。
植村は慌てて、
「違うんだよ。お母さん、今はこの家にいて、お父さんは・・出張中なんだ」と嘘で取り繕っている。
「だって、コウイチ、そんなに長い出張、おかしいわよ」
お母さんドールは更に、
「電話は?」と言って「私、電話をかけてみるわ」とリビングの電話器に向かった。
その時だった。
「お母さん!」と植村は彼女を追いかけ、背中の真ん中辺りを押した。
すると何かの気が抜けるような音がしたかと思うと、「ああっ」とお母さんドールは小さな喘ぎ声を漏らしその場に崩れた。ドールはうつ伏せに倒れた。動かないドールはマネキンのようにも思えた。
僕が「植村、何をしたんだ」と訊ねると、
「やばくなったら、いつもこうやって、お母さんの稼働を停止させるんだよ」と答えた。
活動の停止。それは便利なのか、
AIという疑似生命に対する冒涜なのか。
そんな騒ぎの中、イズミがむくりと起き上った。
「お休憩、カンリョウです」なんだか懐かしく可愛い声。
僕は「おい、まだ僕は青のボタンを押していないぞ」と言うと、
「放置していると、5分後には目覚めます」と説明した。
なるほど。そんな機能が。
そんな僕たちを見て植村は、
「井村、今日のところは、帰ってくれないか」と言った。
「お母さんのこと、いいのか? けっこう困惑していたみたいだが」
「悪いな。けど、もう十分だよ」
僕が、「十分ってどういう意味だよ」と尋ねると、
植村は、
「なんか、嬉しいんだよ。まるで、本物のお母さんみたいで・・若すぎるけどな」
本物のお母さん。
けれど、イズミは、状況を察したのか、
「こうなったセキニンを感じます」と気を落としたように言った。
責任・・イズミが責任を感じているのか。ただのドールなのに。
イズミは再び、ケーブルを取り出し、自分自身に差し込むと、うつ伏せのお母さんドールのブラウスを引き上げ、露わになった背中の差し込み口にケーブルの
ジャックを突っ込んだ。一瞬、お母さんドールの体がビクンと痙攣した。
すると、さっきのようにイズミの瞳が青く光り始めた。
「イズミ、何をしているんだ」と僕が訊ねると、
「この人の深いキオクに入り込みを開始しました」と答えた。
しばらくして「その本は『ゆうづる』というダイメイですか」と言った。
イズミは本の話を聞いた後、寝てしまったから題名は聞いていない。
植村は「そうだよ。夕鶴だ」と答えて「イズミちゃん。すげえな」と感嘆の声を漏らした。
そう言った植村に向かってイズミは、
「そのご本は・・オオサカのお家にあります」と淡々と言った。
大阪の家?
僕の疑問をよそに植村は何のことかすぐに理解したらしく、
「僕の実家・・親父の家だよ」と言った。「たぶん、親父が持っている。本を大事にする人だから」
父親が持っていたのか。
イズミはお母さんドールの表の記憶の更に奥底までその手を伸ばし、探ったのだろう。
母親の忘却の記憶。
お母さんドールが口にしなかった、思い出せなかったことも掬い上げるように記憶を明らかにした。
凄いぞ、イズミ。やっぱり、お前は高性能だ。
その能力、もっと他に生かせればいいんだがな。
植村も満足し、僕が暇を告げ、帰り支度をした。
本来の目的、お母さんドールに「自己は何者か?」それを認識させることはできなかったが、
別の情報・・本の在り処が見つかった。
それはそれでよし、とするか。
イズミに「帰るぞ」と言うと、イズミはコクリと頷き、帽子掛けから自分で帽子を取り、深くかぶって位置を整えた。
帰り際、車の中でイズミは僕の顔を見て、
「今日は、楽しかった・・と思います」と言った。
笑顔ではない。
ただ、僕はイズミの笑顔を見たい、と思った。
イズミは、
「また、お紅茶、飲むことをしたいです」と小さく言った。
僕は「紅茶なら、家でいくらでも飲ませてあげるよ」と答えた。
「それは、ホントウのことですか?」
その顔は無表情ながらも、僕には笑っているように見えた。
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