第88話 渡辺さん②

 神城が「渡辺さんが、何を言っているのか全然わからないわ」と小さく言った。

 そんな神城と、君島さんに僕は耳打ちするように言った。

「渡辺さんの様子が変だ。気をつけた方がいい」

 僕の忠告に神城が「ええっ、屑木くん、どういうこと?」と言い、君島さんは「私は、とっくにそう思っていましたわ」と合わせた。

 神城が、僕と君島さんの様子を見て、後ずさった。僕たち三人共、渡辺さんから離れた。

「だから、私は初めて会った時から、この男が気に入らない、と言ったじゃない!」君島さんが怒るように言った。


 そんな僕たちとは関係なく、二人の会話は進む。

「それで、私に質問とは?」

 伊澄瑠璃子は話を促した。

「体に『あいつ』を入れられた人間は、最後には体を乗っ取られるんだな?」

 伊澄さんに対しての渡辺さんの質問は、最後の問いにも聞こえる。

 その返事を聞いたら、あとは何も訊かなくていい。そんな感じの声だ。

「その質問には、さっきお答えしましたわ」

 平然と応える伊澄瑠璃子、それに比して感情を昂ぶらせる渡辺さん。

「そうなったら、もう救えないんだな?」

 更に念を押す渡辺さんの質問に、

「間に合う者と、そうでない者・・その区別は、あなたなら、とっくについているでしょう?」と伊澄瑠璃子は静かに微笑んだ。


 手遅れの者は、渡辺さんのことなのか? 彼は自分のことが知りたいのか?

 ずるっ、ずるっ・・

 何か、来るぞ。この感覚・・教室に体育の大崎が来た時の感覚と似ている。

 この部屋に来る。邪悪な心が。いや、もう来ているのかもしれない。


「神城、君島さん、ここから出よう」僕は二人に呼びかけた。

 イヤな予感がする。

「まあ、君たち、待てよ」

 渡辺さんがにやりと笑って、君島さんの細い肩を掴んだ。

 渡辺さんの動きが想像以上に早い。

 そして、その顔を見ると、口が、がぱっと開けられ、中から、

 ナメクジ、いや、巨大な蛭のような物がずるっと這い出てきた。「あれ」だ。

 あるいは、伊澄瑠璃子が「人」と呼ぶものだ。

「この化け物っ!」

 君島さんが、渡辺さんの腕を振り払い、体を押し退けるようにして、顔を平手で叩いた。

 すると、君島さんの力が強かったのか、あるいは、渡辺さんの体が想像以上に柔らかかったのか、

 渡辺さんの頭がぐにゃりと、ありえない角度まで曲がった。

「痛いなあ」

 そう言って渡辺さんは首の位置をぐいぐいと元の位置に戻した。中の「あれ」は引っ込んだようだ。

「君だって、いずれ、こうなるよ」とにやりと笑った。

 振り返ったその顔には穴が空いていた。集中力を高めなくても見える。

「ひいっ!」神城が切れるような叫びを洩らした。

 これが、記者の渡辺さんの正体か。

 こいつの真の目的は何だ? 僕らの血を吸うことなのか?

 いや、それだけだったら、ここに来る必要はない。どこかで誰かを襲えば済むことだ。その目的は、自分の状態を伊澄さんに見てもらうためなのか。それとも中の「あれ」を取り除いてもらうためなのか? 分からない。

 そして、分からないことは他にもある。


「伊澄さん。この家は・・本当に君の家なのか?」

 そう僕が言った瞬間、

「な、何なの、この部屋・・」神城が大きな声を上げた。

 見ると、神城の肩に蜘蛛の巣がかかっている。更に周囲を見ると、

 辺り一帯、蜘蛛の巣だらけだ。畳は捲れ上がり、天井は垂れ下がり、襖はひどく破れている。薄暗い中、塵、埃が舞っている。

「いやあっ、服が汚れるわ」君島さんも声を上げ、髪や服に付いたものを払いだした。

 ここは綺麗好きな君島さんの澄んでいる世界とは無縁の世界。

ここは、まさしく廃墟だった。

 人間の住処に見えるように、今まで伊澄瑠璃子が結界を張っていたのだろう。

 廃墟はこの家だけなのか?

 奥の部屋に伊澄瑠璃子の両親がいる、というのは嘘だったのだろう。


 だが、伊澄瑠璃子は、こう言った。

「正確には、ここが私の家だったのよ。あの事件の時も」

 ここが、家だった・・あの事件の時も。

 伊澄瑠璃子はさっき言っていた。それはお姉さんのことだ。

 伊澄瑠璃子の姉を妬み、裏切り、知人の男に性的暴行をさせた友人とは家が隣同士だと言っていた。

 その女友達は、今でもこの家の隣に住んでいるのか? 家が隣同士というのが気になる。


「知っていたよ」渡辺さんが当然のように言った。

 渡辺さんは、伊澄瑠璃子が張っていた結界に気づいていた。そして、ここが昔、伊澄さん姉妹が住んでいた家だということも知っていたというのか?

 これまでの渡辺さんの言動は全て芝居だった。


 べた、べた、と音がした。そして、ずる、ずる、

 何かを引き摺るような音。間近に聞こえる。

 だが、どこにも見えない。

 それよりも、今の僕たちの取るべきことは、ここから出ることだ。

 得体の知れない物を見ることではない。

 危険だ。神城も君島さんも。


 神城が「屑木くん、気味悪いわ。早く出ましょうよ」と僕の腕を引いた。

 そんな僕たちを引き留めるように、伊澄瑠璃子がこう言った。

「屑木くん、もうすぐ、さっきお話した、私の姉の物語の続きが見れますわ」

 伊澄さんのお姉さんの物語の続き?


「醜いものは嫌いだ。恨み、嫉妬、全てが醜い」

 そんな伊澄瑠璃子の思念が流れ込んきた。


「来たわね」

 伊澄瑠璃子が天井を仰ぎ見た。

 同時に、渡辺さんが不気味な声で笑い始めた。

 まるで、何かの出来事を二人とも予め知っていたかのようだった。


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