第71話 教室の結界

◆教室の結界


 どうして、吉田女医がそこまでのことを知っているのかはわからない。

 しかし、「あれ」が何であれ、佐々木や松村の中から、「あれ」を取り出すという方針は変わっていない。

 しかも、それをお願いする相手は「あれ」を入れた張本人である伊澄瑠璃子だ。

 その伊澄瑠璃子は教室の一番前、先生と向き合う位置に座っている。

 以前、君島律子が指摘したように、女の先生は伊澄瑠璃子を指名するが、男性教師は伊澄さんに当てることはない。

 それも彼女の催眠の効果なのだろう。彼女にとっては男の教師は汚らわしい者ということなのだろうか。

 男ではなく、男性教師。

 伊澄瑠璃子は男の先生に何かをされたことでもあるのだろうか?

 思い浮かぶのは、あの淫行教師・・体育の大崎以外にいない。

 大崎が伊澄瑠璃子に嫌がるようなことをして、それが原因で男の先生を避けるようになった・・そんな推測も成り立つ。

 そんな想像をしていても仕方ない。

 とにかく伊澄瑠璃子に接触することだ。


 伊澄瑠璃子に接触・・話しかける場所は教室しかない。時間帯は、昼休みか放課後か。

 同じクラスメイトなのに、しかもあの屋敷に一緒に行った仲なのに、こんなに勇気がいるとは思わなかった。


 だが、そうも言っていられない。まず、昼休み。

 伊澄瑠璃子の昼食はお弁当だ。孤高の高嶺の花でも食事はする。

 何故か不思議なのは、いつも彼女の傍にいる黒崎や白山のような取り巻きが、彼女の食事時にはいない。食事を摂るところを見られるのがイヤなのだろうか? 眉目秀麗のイメージが壊れるとでも?

 そんな昼食時が、唯一の話しかけるチャンスだ。

 僕は一人じゃない。僕には委員長の神城がいる。それに僕と同じ境遇となった君島律子がついている。

 そんな彼女たちに「声をかけてくるだけだから、一人でいいよ」と言って教壇の方に向かった。


 伊澄瑠璃子は教壇に向かって一人、食事をしている。長い黒髪が肩にふわりと広がっている。

 その背中が僅かに動いているのを見る限り、普通に食事をしている風に見える。

 だが彼女自身が血を吸っているのなら、人間の食事ほど不味いものはないだろう。本当に食べているのだろうか?

 僕はゆっくりと彼女に近づいて声をかけた。

「い、伊澄さん・・」

 自分の声が予想より小さいのに気づく。情けない。


 そんな小さく情けない声でも伊澄瑠璃子には聞こえたのか、

 ゆっくりと顔を向けた。

 僕を見上げた伊澄瑠璃子の顔は、

 とても美しかった。

 彼女は、こんなにも綺麗だったのか。

 もちろん、彼女の顏は、彼女が転校してきた時から何度も見ている。周囲の生徒の羨望の眼差しを受けている時の顏も見ているし、一緒に屋敷に行った時も十分過ぎるほど見ている。その美貌は目に刻みつけられている。

 それに、あの公園のブランコで僕に「あれ」を入れようと迫られた時には尋常ではないほど顔が近づいていた。だがあの時は恐怖でそれどころではなかった。


 いずれにせよ、その時と顔立ちが変わったわけでもないのに、今、こうして見つめ合ってしまった顔は更に美しく映る。

「何かしら? 屑木くん」

 僕の視線が彼女の顏から離れなかった。顔以外が見えない。他の景色が消えた。

 顔以外に目を落とせるのは、彼女の肩・・そして、制服の膨らんだ胸。他には何もない。

 他の箇所に目を移すことが出来ないのだ。結果的に伊澄瑠璃子の机の上が見えない。当然、弁当箱など見えるはずもない。

 ・・これは伊澄瑠璃子の催眠だ。

 男性教諭が伊澄瑠璃子を指名できなかった理由がこれだ。

 彼女は視界を自在に操ることができる。

 彼女は体から妖気のようなものを発し、相手が目にするものを催眠で変えてしまうのだ。


 だが、これだけは言わないといけない。

「伊澄さん・・佐々木と松村の体を元に戻して欲しいんだ!」

 二人の体から「あれ」を取り除いてくれ。

 伊澄瑠璃子の視線は僕の目を離さない。負けてはいけない。

「伊澄さんならできるんだろ? 二人を助けてあげてくれ」

 僕がそう言うと、

 伊澄瑠璃子は、佐々木奈々と松村のいる方向に視線を移した。何やら考えている様子だ。

 そして、

「屑木くん。二人とも、いい具合に仕上がりつつあるわ」と言った。

「仕上がる?」

「ええ、あの体育の先生なんかより、立派になるわ」

 大崎のことか。伊澄さんは、あいつを「失敗作」と言った。

 佐々木奈々と松村は、そうはならないということか?

 けど、そんなのいい・・立派だか何だか知らないが、二人を元に戻して欲しい。

 すると、伊澄瑠璃子は僕の心を見透かすように、「うふっ」と笑みを洩らし、

「それに・・一人は、もう遅いわ」と言った。手遅れ、とでも言うように。

 どっちだ?

 ずっと前に入れられた松村の方か?


 その時、辺りの空気が急激に湿気たようになった。

 空気が変わるのと同時に、

「伊澄さんに何の用なの?」

 心臓が跳ね上がるようにドキッとした。

 その声は伊澄瑠璃子のものではなく、それは左右から聞こえた。声は同じ声量だった。しかも音質までそっくり。

 僕の右に白山あかね。左に黒崎みどりだ。伊澄瑠璃子の双子みたいな取り巻きだ。

 

 人間というのは、左右同時に見ることはできない。

 左右に女子が二人いることはわかる。だが、目は左右にないので、僕の目は半ば強制的のように伊澄瑠璃子一人に向けられる。

 すると、僕の視界・・いや、世界そのものが伊澄瑠璃子のいる場所しかないような感覚に襲われる。

 そうだ・・この世界は僕と伊澄さん、そして、腰巾着の二人しかいない。

 他の誰もいない。

 気持ちが、ふーっと遠のいていく。

 彼女に近づいた人は、みんなこんな感覚を味わったのだろうか?


 周囲にはクラスのほぼ全員がいる。弁当を食べている者、談笑している者。トイレに立つ者。そんな人間たちが僕の視界にないばかりか、

 周囲の人間も僕に目もくれない。

 まるで、僕と伊澄瑠璃子の周辺が、結界に覆われたようだった。


 僕の両腕が左右から掴まれた。その腕は黒崎みどりと白山あかねだ。

 ぐいと腕が左右に引っ張られる。

 抵抗したいのに体に力が入らない。

「屑木くん!」神城の声が聞こえた。だが、その姿が見えない。

 神城のいる世界と、僕のいる場所が別世界になっているようだった。


「ねえ、あかね。この男の子の名前・・何だったかしら?」

 黒崎みどりがそう言った。

「私も知らないわ・・こんな男子」

 白山あかねが応えた。

 二人とも僕の名を忘れているのか。一緒に屋敷に行ったではないか。

 だが、黒崎みどりも白山あかねも、体の中に「あれ」を入れられている。

 体内に「あれ」が入っている者は、運動神経が異常に発達している反面、頭が悪くなる。

 だからと言って、クラスメイトの名前を忘れるほどなら、それはもう同じ教室で学ぶ者同士ではない。あのファミレスの男のように、ただの「あれ」が入っている器だ。


「名前は知らないけれど、この子、伊澄さんに何かしようとしていたんじゃないの?」

「確かにそう見えたわね。ずいぶんと勢いよく伊澄さんに近づいたもの」

 僕の腕を掴んだまま白山と黒崎が語り合う。

 まるで二人は伊澄瑠璃子を守る衛兵みたいだ。

 そして、黒崎が伊澄瑠璃子に向かって「ねえ、伊澄さん。こんな子、知らないですよね」と言った。白山も続けて「こんな子、伊澄さんの傍にいたら、伊澄さんが汚れてしまいますわ」と言った。どうやら、僕と伊澄瑠璃子を引き離す気らしい。

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