第266話 あろうことか①

◆あろうことか


「へえっ、そうなんだ。速水さんはみんなに対して、きついんだね。私だけじゃなかったんだ」

 加藤は驚いた顔を見せたが、楽しんでいる風にも見えた。

「だから、前もってちゃんと本を読んでおかないと、速水部長に怒られるかもな」

 少し脅かすように言うと、加藤は肩をすくめ、

「速水さん、人の心を見透かしたようなところがあるもんね」と笑った。

 確かにそうかもしれない。

「加藤の参加、楽しみにしているよ」

 これまで本をまともに読んだことのない人の意見は楽しみの一つだ。

「そう思って、『檸檬』も読んでいたんだけどね」と言った。「ごめんね、行けなくて」

「今度は、来るんだろ?」

 僕が念を押すと、加藤は「うん。絶対に行くよ」と答え、

「『雪国』・・もう読んだよ」と言った。

「面白かったか?」

「雪国」は名作とはいえ、地味な恋愛小説だ。大きな展開もそれほどない。読書慣れでもしていない限り、「面白い!」とは言えない本だ。

 加藤はしばらく間を置いた後、

「雪国の主人公の島村さん・・まるで鈴木みたいだね」と言った。

「えっ、僕?」


「雪国」の主人公の島村は、旅館の芸者の駒子といい仲だ。だが、その陰に常に、薄幸の美少女の葉子の存在があった。 

 加藤がこの主人公の島村と僕のどこが似ている、と言ったのか分からないが、

 一つ、思い出したことがある。

 それは、雪国のプロローグ部分だ、

 主人公の島村は、雪国に向かう夜の列車の中で、透明感溢れる美少女の葉子に出会う。

 列車の窓に町の灯りが映っているのだが、蛍のような灯りが、葉子の頬と重なって見えるシーンがある。

 葉子の頬に蛍のような夜の光が揺らいで見えるのだ。

 すごく印象に残るシーンだ。いや、むしろ映像としては、一番頭に残った場面かもしれない。

 さっき、加藤の頬に揺らぐ光を見て、「美しい」と思ったのは、そのシーンと重なったのかもしれなかった。


「主人公のどこが、僕に似ているんだよ?」僕が訊ねると、

「鈴木って、いつも、悩んでいるんじゃない?」

「それって、普通のことなんじゃないのか? 小説の主人公が悩んでいないと話にならないじゃないか」

 加藤は「うーん」と思案し、「私、あんまり物事を深く考えないからなあ」と言った。

 そう言った加藤の表情が面白かったので、つい、

「ま、加藤が小説の主人公だったら、物語が生まれないよな」とからかうように言った。

「ちょっと、鈴木、その言い方、ひどくない?」

 加藤はそう言って、肘で僕を小突き、楽しそうに笑った。

 加藤は、物事を深く考えない、と言ったが、そうではないことは僕がよく知っている。加藤は見かけとは全然違う女の子だ。

 あの佐藤が「頭に汗しかない」と悪態をついていたが、それは違う。加藤はその正反対に繊細な感情を持つ女の子だ。


「そっかあ。小説に限らず、人間って、色々と悩むもんなんだね」と感慨深く言った。

 そう言って、再び前を見た加藤の横顔にまた見入ってしまった。

 その向こうに川面の光が揺らいでいる。何かの素敵な絵画のようにも見えた。

 うっとりするような光景。なぜか、この風景、そして、時間が心地いい。

 ずっとこのまま・・

 さっき、喫茶店で二人から聞いた石山純子の話の疲れからか、

 少し眠く・・

 !

「しまった!」

 そう言った僕の声は加藤に聞こえたのだろうか?

 僕の体が、ゼリー状になっている。夕陽が反射しキラキラと見える。そう見えるのは僕の方だけで、第三者、つまり、加藤には僕が見えない。

 加藤は、鈴木が消えた・・そう思っているはずだ。

 

 あの時と同じだ。

 三宮の本屋さんからの帰り、青山先輩に車で送られた時、僕は透明化した。

 あの時は、考え事をしていたのと、車の揺れが心地よかったせいで知らないうちに眠気が襲っていたのだ。睡眠に至る眠気ではなく、心地良さの眠気だ。

 今も、あの時も、僕は体の状態に気がつかなかった。


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