第257話 孤独
◆孤独
ミズキはそれだけ言うと、部室を出て行った。
しばらくすれば、小清水さんが戻ってくることだろう。
しばしの休憩時間の中、
「あのミズキという子は、沙希ちゃんにとって必要なのかもしれないな」
青山先輩はポツリと言った。
「必要・・って?」と僕が訊ねると、
「私は、精神的な病理のことは何も知らない。けれど、沙希ちゃんの心のバランスを保つためには、ああいう子が必要な気がする・・そう思ったのだよ」
僕は当初、小清水さんが別の人格に乗っ取られ、他の人格者に占領され、小清水沙希という女の子がいなくなるのでは? そんな危惧も抱いていた。
青山先輩の言う通りだとしたら、小清水さんと他の人格者が上手く共存できればいい、そう思う。
だが、それは他者がいない場合だ。この場は青山先輩や速水さんのように理解者がいる。全くの第三者がいた場合、そんな呑気なことも言っていられないだろう。
すると、和田くんが、「僕が好きだったのは、一体誰なんだろう?」と言った。
その後、青山先輩が僕と速水さんに向かって、
「沙織と君は、沙希ちゃんのことを前から知っていたんだろう?」と訊いた。
僕が頷き、速水さんは小さく「ええ」とだけ答えた。
「確かに、合宿の酔っ払い騒ぎの時や、キリヤマと遭遇した時も沙希ちゃんはおかしかった。言動が乱暴だった。あれは別の人格だったんじゃないのか? それを君たちは以前から知っていた・・」と重ねて訊いた。
和田くんは、ようやく理解できたという風に「それで、あの時・・」と小さく言った。
青山先輩の問いに速水さんが何か答えようとした時、
小清水さんが戻ってきて「すみません。私、何だか、気がついたら、廊下にいて・・」と言った。「私、またいつもの癖が・・」
小清水さんは、自分を夢遊病患者であるかのように言った。
その悲しそうな言葉を聞くと、小清水さんが気の毒になる。やはり、多重人格は治さねばならないものだ。そう思う。
だが、小清水さんが正常になれば、ヒカルやミズキはどうなってしまうのだろう?
二人の存在は、この世から消えてしまうのか?
小清水さんが席に着き、再び、「檸檬」の感想や意見を交わし合った後、
青山先輩が「今日は、いい読書会だった」と全体的感想を述べ、本日の読書会は終わりを告げた。
速水部長が散会を告げた後、青山先輩が速水沙織に向かって、
「沙織、さっき、あの子が言った言葉をどう受け止めるんだい?」と訊いた。
「別に、どうも受け取らないわ」速水さんが答えた。
ミズキは、水沢さんのように心を読んだわけではない。今の速水さんの表情を見ていれば、誰だってそう言いたくなる。
小清水さんは何のことか分からない顔をしている。それはミズキが言ったセリフだからだ。
青山先輩は、
「ここには、部員全員がいる。全員が味方だと思っていい。少なくとも、敵はいない」と前置きし、
「沙織・・本当のことを言ってくれ」と言った。
「本当のこと?」速水さんが小さく言った。
「沙織・・本当は、つらいんだろう?」青山先輩はそう訊いた。
速水沙織は黙っている。眼鏡の奥の瞳からは何も読めない。
「沙織の家が今どうなっているか、大体、想像がつくよ」
青山先輩の言葉に、速水さんの肩が震えた。
その様子を見て僕は、
「青山先輩!」と制し、「青山先輩の言いたいことは分かりますけど、小清水さん、それに和田くんは、速水さんの家の事情は何も知りません」
僕は小清水さんと和田くんの顔を見比べながらそう言った。
すると、
「鈴木くん、それは違うと思います」小清水さんが強く言った。いつもの小清水さんらしからぬ強い言い方だ。
「私は、同じ部員として、速水部長のことをもっと知りたいです」
小清水さんはきっぱりと言った。
「速水部長。いつもこの部室に遅くまで残っていて、何かあるのかな? 家に帰りたくないのかな? 何か事情があるのかな? いつもそう思っていました。訊いても、部長は何も答えてくれなかったし、日に日に、その表情が悲しくなっていくように見えました。それに、二学期が始まってからは、特に沈んでいるように見えるし・・」
小清水さんは一気に話すと、
「以前の速水部長に戻って欲しいです!」
そして、
「速水部長、辛いなら辛いと、私たちに言ってください!」と大きく言った。「仲間じゃないですか!」
「沙希さん・・」速水さんが反応した。
和田くんが、「僕もその方がいいと思う」と意味も分からず同調した。
不思議な光景だった。
小清水沙希という女の子の中に、別人格のミズキがいるような気がした。
元は同じ女の子なのだから、それは当たり前なのかもしれない。
だが、そんなことじゃなく、小清水さんの内気な人格をミズキが背中を押している。そんな感じに見えた。
「沙織・・みんな、仲間だ。二人ともそう言っているじゃないか」
青山先輩はそう言った。だが速水沙織の性質上、皆に頼ることはしない。それは僕がよく知っている。
速水沙織は孤高の存在だ。
この春・・僕は速水沙織の姿を須磨の海岸で見かけたことがある。
水沢さんや加藤と水族館に行った帰りだ。彼女は海岸に立って、一人、海を見ていた。
あの時、速水沙織の姿から流れてきたのは、強烈な孤独だった。
それ故に、速水沙織を孤高の位置から降ろすのは無理だ。皆の誘いに乗ることは決してない。
それは分かっている。分かってはいるが、僕は言わなければならない。
「速水部長、いや、速水さん。ここにいる皆なら、あのことを言ってもいいと思う」
僕はそう言った。速水沙織の家の現状。それを皆に伝えた方がいい。そうした方が、これからも皆とうまく・・
そう思った時、
速水沙織の顔がくしゃくしゃに泣き崩れたように見えた。
僕には速水沙織の表情の意味が痛いほどよく分かった。
「鈴木くんまで、皆と同じようなことを言うのね」速水沙織の顔はそう言っていた。
そして、速水さんは今日一番の大きな声を上げた。
「私のことは・・放っといてちょうだい!」
皆が驚くほどの声だった。彼女のこんな大きな声を聞いたことは今までになかった。
その言葉は、青山先輩はもちろんのこと、僕に対しても放たれていた。
速水さんは自分のことにかまわないで欲しいと言ったのだ。
だが、そんな反応を見せれば、何かあったと思われても仕方ない。
速水さんは、「私、先に失礼するわ」と静かに部室を立ち去った。青山先輩が「沙織、待つんだ!」と言ったような気がしたが、多分、耳に届いていなかっただろう。
速水さん・・
一体、君はどこに帰るというのだ?
そして、僕は寂しそうな彼女の後姿に心の中で言った。
「放っておけるわけがないだろ!」
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