第239話 ヒカルと沙希②
ヒカルは最後に、
「鈴木。意外と、いい男じゃん。顔じゃなくて、心が・・」
と、言って消えた。もちろん、姿ではなく、ヒカルの心が消えた。
顔じゃなくて、心が、って・・そんな言い方はないだろ。
そう思っていると、ヒカルは僕の方へと倒れ込んできた。いや、ヒカルではなく小清水さんの体が。
僕は慌てて小清水さんの体を抱き留めた。小清水さんの心臓の鼓動が聞こえる気がした。
小清水さんは、僕を見上げるようにして、
「あれ?・・す、鈴木くん?」と、目が覚めたように言った。同時に慌てて身を起こし、取り繕った。「やだ、私・・鈴木くんになんてことを・・」
いつもの小清水さんの顔だ。文学少女の大人しい小清水沙希だ。ヒカルは完全に消えている。ヒカルには悪いが、やはり三つ編みは小清水さんの方が似合っている。
小清水さんは、「私、早川先生に呼ばれて、ここに来たんだけど・・」と言って「あれっ、私、どうしちゃったのかな?」と戸惑いの声を上げた。
小清水さんは懸命に記憶を手繰り寄せようとしている。
数秒間を置き、小清水さんは何かの記憶にぶち当たったように、はっと、手の平で口を押えた。
「ええっ・・嘘っ、私・・」小清水さんは小さな声を上げた。
気づいたのか? 早川に無理矢理に何かをされそうになったことに。
小清水さんは「鈴木くん、どうしてここに? いつから?」と尋ねた。「早川先生はどこに行ったの?」
「早川?」
小清水さん、ダメだ。思い出しちゃいけない。
「私・・早川先生の目が怖くて、・・」小清水さんは更に記憶の底に潜っていく。
「先生の顔が近づいて・・そ、それから・・」
そこまで言うと、
「いやああっ」と叫び、頭を抱え込んだ。
本当の記憶の底に辿り着いたのだろうか? 僕も小清水さんも真実は分からない。知っているのは、皮肉なことに早川だけだ。
小清水さんは、右手で唇を押さえた。そして、「まさか、まさか」と何度か繰り返した。顔が真っ青だ。
「いや、何もなかったんじゃないのかな・・」
やっと僕の声が出た。
「えっ・・そうなの?」
「この部屋に小清水さんと早川が入るのを見たんだ。何かおかしい、と思って、すぐに僕もここに入った。すると早川の奴、慌てて出ていったよ。あいつ、変だな」
僕の話をコクコクと頷き聞いていた小清水さんは「そうだったかな?」と言った。
少しずつ、記憶が是正されていくのを感じた。
「でも、鈴木くんはどうしておかしいと思ったの?」
「この部屋、普段は誰も使わないって、聞いていたから。そこに早川が小清水さんを連れ込んだって咄嗟に判断したんだ」
「早川先生に、部屋の整理を手伝って欲しいって、声をかけられたの。でも、それは嘘だった。たぶんイヤらしいことをしようとしていたと思う・・」
あいつ、そんなことを。小清水さんの純情を弄びやがって!
「僕がすぐに入ったから、大丈夫だよ。何もない」
小清水さんがじっと僕の顔を見ている。
「私、信じる」と小清水さんは強く言った。「鈴木くんのこと、信じる」
小清水さんは言った。こんな嘘つきの僕を信じると言った。
「それに、鈴木くんが私のこと、心配してくれたのが嬉しい・・」
小清水さんの瞳がうるうるとしている。
「そ、それは、同じサークルだし・・心配するのは当然だ」
僕のそっけない言い方に小清水さんは、「そうだよね。鈴木くんはそう言うよね」と小さく言った。
ごめん。僕にはそれくらいしか言えない。
ヒカルの願いも聞いてやれない。
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