第233話 ナミとプールと詩集と透明化と②
辺りが騒がしくなった。子供たちの声が沸き上がった。
大プールで大波が発生したのだ。プールサイドで休憩していた人も、プールに向かって駆けていく。
「兄貴、私もひと泳ぎしてくるよ」
そう言って、ナミは立ち上がった。「兄貴がまだ休んでるんだったら、私、一人で行ってくるよ!」ナミはお尻の汚れを拭うと一目散に駆け出した。
「おいっ、ナミ!」
僕の声を無視したナミのツインテールが揺れながら遠ざかる。妹ながら無邪気な姿だ。
しょうがないな・・
ナミが飲み干したコーラの缶を片付け、ナミが置いていった浮き輪を手に取った、
ここの波の出る大プールは、前回、透明になってしまったという苦い思い出がある。
あの時は、透明状態のまま、水着の加藤の体に触れそうになった。
故に、いざ透明になってもいいように、僕は人の集まらない流れの澱んだプールに向かった。
ここは人が少ないし、この時間は、みんな波が出た大プールの方に移動している。流水プールのように人にぶつかることもない静かな場所だ。僕は浮き輪に体を通し、そのまま水の動きにまかせて、昼寝スタイルをとった。
空を見上げる。太陽が眩しく、焼けた肌を更にじりじりと焼く。
この格好なら、透明になっても構わない。もしなったとしても、誰かが忘れた浮き輪が流れていると思うことだろう。但し、それを取ろうものなら、取り上げた人間は、この世のものとは思えない事象に出くわすことになるだろう。
そんな人の驚きにまで、僕は責任を持てない。
ちょっと疲れた・・
僕は静かに透明になった。
体を見ると、ゼリー状になっている。自主透明化なのか、それとも眠気を堪えたから透明になったのか分からないような透明化だ。
誰にも気づかれることはない透明化をしばらく楽しむことにした。
透明になっていると、陽に焼けることはないのだろうか? そんなことを考えた。
それにしても、どうして透明になった僕の体を見えたり、見えなかったりする人がいるんだろう?
そう思いながら、本当の眠りについてしまった。
眠りながら、夢を見ていた。
澱んだ流れのプールに、プカプカと浮き輪が浮かんでいる。
そんな浮き輪を誰も見たりしはしないし、誰も掴もうとはしない。
影の薄い浮き輪だ・・
そう思った時、
突然、目が覚めた。
誰かによって、浮き輪がぐいーっと勢いよく引っ張られたからだ。
「ちょっと、兄貴、何やってんの!」
それはナミの腕だった。
「兄貴、もう少しで、あの女子大生軍団にぶつかっちゃうところだったよ!」
え?
ナミの指した方を見てみると、すぐ先に大きなイカダボートに、何人かの大人の女性が楽しそうに乗っている。
ぶつかって転覆させれば、ひんしゅくを買うか、下手をすれば痴漢もしくは変態扱いだ。
だが、そんなことよりも、
ええっ!
僕は今は透明のはずなんだが・・
腕を見てもまだゼリー状だ。透明になって20分も経っていないはずだ。
「ナミ・・ナミには、この兄の姿が見えるのか?」
そう言った僕に、
「何、言ってんのよ! 意味わかんない」ナミはそう言って、「兄貴は、時々、影が薄くなって、見えにくくなるけれど、ちゃんと見えているよ。お天道様の下、見えない人なんていないよ」
なんか、失礼なことを言いまくっているな。
「あのな・・ナミ・・周りにいる人を見てみろ」
そう言われたナミは、周囲に視線を走らせた。家族連れの子供が訝しげにナミを見ている。「あのお姉ちゃん、一人でしゃべっている!」と言いたげな顔だ。
「あれ、なんか、私、すごく注目を浴びてない?」
それはそうだ。ナミは透明人間としゃべっているのだから。誰も乗っていない浮き輪に向かってしゃべっている変な奴として、人々の目に映っている。
「なんでかな?」ナミはそう言って、
僕の顔を真顔で見ると、
「私って、そんなに可愛い?」と笑った。
「知るか!」
何度も確認したが、僕は透明のままだった。
まさか、そんな事象をプールに浸かったまま、ナミに説明できない。
少し落ち着きを取り戻した僕は、
「ナミ、なんでこっちのプールに来たんだ? 大波プールを楽しんでいたんじゃなかったのか?」と尋ねた。
「そんなの決まってるじゃん。一人で大波に揉まれていても、つまんないからだよ」
それもそうだな。
他愛もない会話を続けていると、透明化は終了した。
元々、僕が透明化してもナミには薄らと見えていた。それがどうだ。今日は太陽の下、ナミには完全に僕の姿が見えていた。
透明化しても見える人間と見えない人間の違い・・
何となくだが、それが分かるようになってきた。
それは、僕に対する理解、もしくは寄り添いのようなものだ。
僕の母は、最初から僕のことが見えていた。普段、会話をしないナミがこうして見えたということは、妹なりに僕の事が分かってきたからだろう。昔に比べて、ナミとよく話すようにもなっている。
他にも、小清水さんや、青山先輩。そして、青山先輩のお付の運転手の石坂さんも、透明化した僕の姿が薄らと見えていた。
それも妹のナミと同じ事象だと思う。
まだ分からないことはあるが、
僕の知っている限り、水沢さんと加藤の二人には、僕が透明になっても全く見えていなかった。
僕の姿が見えないという事実を、誰かを想うことの尺度にしようとは思わない。
思わないけれど・・
もう一人の透明人間、速水沙織の透明した姿を僕は見ることが出来ない。
ごめん、速水さん・・君が透明になっても、
僕には君の姿が見えないんだ。
・・その事実が僕には悲しかった。ひどく悲しく思えた。
妹のナミが僕を理解するようになって、僕の姿が見えるようになる。
その定義に速水沙織という女性を当てはめて考えると、
僕は、速水さんのことを何もわかっていない・・そういうことになる。
あんなに多くの話を交わしても、彼女のことを分かっていない。
それは同時に、僕は速水さんのことをもっと分かりたい。そんな気持ちに変化していった。
これまで、僕と隣り合わせのようにいた速水沙織という女性をもっと理解したい。
そして、この気持ちは・・
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