第232話 ナミとプールと詩集と透明化と①
◆ナミとプールと詩集と透明化と
「ねえ、兄貴・・夏も、もう終わりだね」
ナミが感慨深く言った。
「ああ、そうだな」と僕はそっけなく返した。
妹のナミは、僕の横で体育座りをしている。
黄色のセパレートの水着だ。妹の水着姿を見るのは何年ぶりだろう。少なくとも妹が中学に入ってからは一度も見ていない。
残暑の照りつける光がオイルを塗った二人の背中を焼いている。
そう、ここは、波の出る巨大プールだ。夏休みの初めに、夏のプール限定の友達である小西と岡部と行ったきりだ。
目の前をいちゃつくカップルが横切ったり、幼子が転がる浮き輪を追いかけたりしている。
僕とナミは、大プールに大波が発生するまで、こうして仲良く並んで座っている。会話も乏しい。普段、家で話しているのに、わざわざ、プールで話すとなると、なぜか気がひけてしまう。
「で・・兄貴、何で夏の終わりに、私をプールに連れて来たんだよ!」
ナミは、機嫌がいいのか、悪いのか、分からない様子だ。
「いや、この夏、なんも兄貴らしいことをしていないからな」
「で、なんでプールなのよ。私、プールに行きたいなんて、一言も言ってないんだからね! 行くんだったら、三宮でも行って、服か何か買ってくれればいいのに」
「まあ、いいじゃないか」と僕は受け流した。
三宮に妹を連れて行ったりしたら、色々とねだられて、破産してしまう。
「あ~あ」
ナミは、太陽を仰ぎながら、「なんで、この夏は、彼氏ができなかったのかなあ」とぼやいた。
「まだ夏は少し残っているぞ」
「もう終わりと同じだよぉ」
そして、
「この夏に、いいことがあったのは、なぜか兄貴ばっかりなんだよねえ」
そうかあ?
僕が反論する前にナミは、
「だってさあ・・」と愚痴を零すように言いながら、
「合宿はあるし、デートもそれなりにしたみたいだし、そのくせ、勉強もちゃんとしているしねえ」と僕の夏休みを総括するように言った。
「加えて、花火大会も!」と付け足した。「私、花火大会に行ってないもん!」
「そう言うけどなあ、あまりいいこともなかったぞ。それなりに大変だったんだ」
本当に大変だった。とくに花火大会は・・
「でも、兄貴、成長したんじゃない? それなりに」
「それなりに、って何だよ。その言い方」と僕は抗議して、「どうして、そう思うんだ?」と尋ねた。
「だってさあ。兄貴、毎日のように顔が変わってたじゃん」
「顔が、毎日のように?」
「私が、言ってる意味わかる?」
僕が「全く分からない」と返すと、
「ある時は、悩める人だったり、またある時は、ニヤニヤしていたり」と続けた。
「ニヤニヤしていたことなんてあったか?」
「あったよお。加藤さんとのデートの打ち合わせの時なんて、すっごい顔だったよ」
「いや、そんなはずはない。そんな記憶はないぞ」
「兄貴、もしそうだったとしても別にいいじゃん。そんなの当たり前なんだし。デートなんて、できるだけで嬉しいし」とナミは言った。
何か癪だな。ここは、何か言い負かさないと・・
「でも、ナミも変わったみたいだぞ」と僕は言った。
「ええっ、どこがよ?」
「胸が大きくなった・・少しだけど」
そう言うと、ナミは真っ赤な顔になって、僕の背中をピシャリと叩いた。
「痛っ!」
陽に焼けた背中に熱いフライパンを当てられたようだった。
ナミはツインテールを揺らしながら、
「もうっ、兄貴、どこを見てんのよ!」
すごい剣幕顔だ。
そんなナミに、「ナミに言われてばかりだから、言い返したくなった」と言い訳をした。
ナミはすぐに穏やかな顔に戻り、
「そんなイヤらしいこと、他の人に言ったらダメだよ。加藤さんとか」
「そんなこと言えるか!」
そんなことを加藤に言ったりしたら、口も聞いてもらえない。ましてや水沢さんだったら猶更だ。
するとナミは「私も、なんか言ってやろうっと」と小さく言って、
「・・君は、僕の太陽・・」
突然、歌うように言った。
「ナミ、なんだよ、それ?」
「兄貴、忘れたの? 自分が書いたのに!」
「もしかして、僕の詩集か?」
ナミは、僕が中学三年の時にノートに書いていた詩集を盗み読みしている。機会ある度に、その文章を引っ張り出してきて兄をからかう。
ナミは、「そうそう、笑えるよね。こんなの私でも書けそうじゃん」とバカにするように言った。
「だって、中学ん時だぞ」
僕が言うと、
「そうそう、兄貴、こんなことも書いていたよね」とナミはまだまだ続ける気が満々だ。
「おいっ、もうやめろ」
ナミはプールの方を眺めながら、更に僕の詩の暗唱を続けた。
「君がいなければ、僕はずっと同じ場所を彷徨っていた・・」
「んぷっ!」
ナミの口を塞いだ。「兄貴、何すんのっ!」手をどけたナミは大きく抗議の声を上げた。
「兄の恥ずかしい心に突っ込むからだ!」と僕は返した。
・・君がいなければ、僕は同じ場所を彷徨っていた。
その言葉の「君」は、中学の時の石山純子だ。ひたすら彼女のことだけを詩に書いていた。
ノート一冊分に書き溜めた。彼女に徹底的に振られてからも書いていた。
要するに、高校二年に上がって、水沢純子に出会うまで書き続けていたのだ。
僕は石山純子への恋を、水沢純子に対する思慕で上書きした。
水沢純子の存在が無ければ、僕はずっと石山純子に対する想い・・つまり、同じ場所から動けずに彷徨い続けていた。
そして、
君が現れたことで、僕はその場所から抜け出すことができた。
その女の子は・・
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