第183話 檸檬(れもん)①

◆檸檬(れもん)


 緊張が緩むのを感じた時・・眠くなると思われたが、

「お義母さま、石坂に車を用意させます」

 急に立ち上がった青山先輩の大きな声で吹き飛んだ。

 青山先輩を見上げると、「鈴木くん。上出来だよ」と言っている風に見えた。

 僕は、少しは青山先輩の役に立ったのだろうか・・


 そんな満足げな顔の青山先輩が退出すると、

 突然、青山夫人・・青山麗華さんと二人きりになる。再び緊張が走る。眠気どころではない。

 青山先輩の足音が遠のくのを確認した後、青山夫人は再び綺麗な脚を組み替え、

「あなた・・鈴木くんと言ったわね」と切り出した。

 大きく綺麗な瞳が僕の目に合わさる。更に緊張し身構える。

 僕が改めて「鈴木道雄です」と言うと、

「灯里さんとつき合っている・・それって、嘘・・よね」と強く言った。

 僕の目が大きく見開かれるのを確認して、

「別にかまわないのよ」と言って青山夫人は、笑みを浮かべた。

「それがわかっても、鈴木くんをどうこうしようとも思わないし、灯里さんを叱りつけることもないわ。それに、私が早川を切る考えも変わってはいない」

 

 体中の汗が吹き出すような気がした。

 あえて「嘘ではないです。本当に灯里さんとつき合っています」と言えないでいた。

 言い返せない雰囲気が、青山夫人にはある。

 では、どうする? 「嘘でした、ごめんなさい」と謝るべきなのか?


 ああ・・青山先輩、どうして、こんな時に、僕を一人にして中座するんだよ。

 僕を置いて去るなんて。

ん?「置いて去る」・・それって・・

 あ、そうか。そういうことだったんだな。


「ごめんなさい」そう僕は青山夫人に言った。

 そう切り出しても青山夫人は黙っている。僕の次の言葉を待っている。

 広い部屋に静かな時間が流れ始めた。

「僕の芝居は、下手くそでしたね」

「ええ・・そうね」

「灯里さん・・いえ、青山先輩以上に、僕は要領を得ないし、何ごとにも不慣れで不器用です」

「でしょうね」

 青山夫人は頷きながら僕の話を聞いている。

 そして、僕はこう言った。

「そんな僕だから、青山先輩は、僕を選んだんだと思います」

 そう言うと、青山夫人は綺麗な笑みを浮かべ、

「そうかもしれないわね」と言った。「まさしく灯里さんの選んだ人ね」

「でもそれは、つき合う人としてではありません」

 そう僕が否定すると、

「では、灯里さんにとって、あなたはどんな存在なのかしら?」

 青山夫人のきつい表情が和らいでいる。

 そんな雰囲気を醸し出した人に僕は、

「・・僕は、檸檬だったんたと思います」と言った。

「れもん?」夫人が首を傾げる。だが、笑わずに僕の話に耳を傾けている。

「はい、梶井基次郎の檸檬です」

 そう言って、僕は檸檬の概略を説明した。僕の話を聞き終えると夫人は、「その小説、学生時代に読んだことがあるわ」と懐かしむように言った。

「もう忘れたけれど、あなたがその爆弾・・檸檬みたいなものだったのね」

 僕は「そうです」と答えた。

 夫人の機嫌を害したかとも思われたが、彼女は、「その本、また読んでみることにするわ」と言った。

 そして、

「でも、勘違いされないように、これだけは、言っておくけれど」と改めて厳しい顔になり、

「私もね・・この家・・青山家に嫁いできたからには、引っ込みがつかないこともあるのよ・・まだあたなには分からないでしょうけれど」と強く言った。

 引っ込みがつかない・・何に対して?

 ・・わからない。

「僕には、わからないです。僕は女性ではないし」と言って、部屋の中を見渡しながら、「こんな大きな家の中に住んだこともないですから、そこに住む人の心も想像できないです」と応えた。

 青山夫人は、「あなた、大きな嘘はついたけれど、正直に言うこともあるのね」と評価して「そうね。あなたには、わからないわね」と遠くを見るような目で言った。


 檸檬・・梶井基次郎の小説「檸檬」の主人公が本屋に置いてきた檸檬は爆弾だったが、青山先輩の置いていったのは、僕だ。

 そんな檸檬代わりの僕は何もできない。

 けれど、僕は感じていた。

 青山先輩の義母、青山麗華さんと青山先輩は・・この先、大丈夫だ。

 そんな確信めいたものが生まれた。


 しばらくして青山先輩が戻り、「鈴木くん、車を用意したよ・・行こうか」と言った。


 青山夫人は、「ここで失礼するわ」と部屋に残ることを告げ、「灯里さん。彼をお願いね」と青山先輩に言った。

 青山先輩は「はい、お義母さま」と応え、僕は青山先輩と家の外・・庭へと出た。

 向こうに車と石坂さんが待っているのが見えた。

 改めて思う・・大きな家、そして、庭だ。

 こちらを見て丁寧に会釈をする石坂さんが遠くに見える。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る