第171話 そんな人と交際できる?①

◆そんな人と交際できる?①


「まず、多重についてだけど、池永先生と私が知る限りでは、5人以上はいる・・私は実際に遭遇したこともあるわ」

 5人に遭遇って・・

「そして、治るかどうかの質問ね」速水さんはそう前置きして、

「私も専門的なことまでは知らないわ。それはおそらく池永先生もよ」と言った。

 そして、「誰にもわからないのではないかしら?」と言った。

「それから、三つ目の質問は・・えっと、何だったかしら?」

「小清水さんが、自分の病気を知っているか、どうかだ」

「そうね、それもわからないわ。当然、沙希さんのご両親はご存知でしょうけど、沙希さんとはその話はしないようにしているし・・」

「本人は知ってるんじゃないのか?」と僕は言った。

だって、そうでないとおかしい。

 僕のぶつけた質問に速水さんは目を閉じ、しばらく考えている。

 僕は続けて、

「僕が見かけた別の人格の小清水さんは、街で男と歩いていたんだ。あの様子だと、30分、いや、一時間以上は男の人と過ごしていたことになる。小清水さん自身がそのことを知らないはずがないじゃないか」

 小清水さんも、「今日は誰といたんだろう?」・・とか思うはずだ。

 すると速水さんは、

「沙希さんは・・本来の人格が飛んでしまっている間の記憶を・・」

 と言って一呼吸置き、

「補完するのよ」と言った。

「補完?」

 僕の疑問に答えるように速水さんは語り始めた。

「例えば、目の病気・・緑内障とか、網膜剥離とかあるわよね」

「ああ・・次第に視野が欠損していく病気だろ」

「けれど、最悪の状態になるまで、本人は気がつかない・・なぜなら、欠けている部分を、他の神経が補うからよ・・見えていないのに、神経が見えるようにしてしまう」

 そういうことなのか・・

「だから、沙希さんは、他の人と過ごしていても、元に戻った時、それまでの記憶を修正してしまうのよ・・一種の自己防衛反応ね」

 なんてことだ・・

 その日にあったことも、事実ではないことに心が塗り替えてしまうのか?

「今、説明したのは、私なりの解釈よ。沙希さんがどう考えているか。ご両親がどこまで知っているのか、私にはわからないわ」

 そんな速水さんに僕は、「ありがとう」と言った。

話してくれてありがとう・・そういう意味だ。


「前にも言ったけれど、沙希さんは心が弱い・・とても繊細で壊れやすいの。だから、何かをきっかけに、別の人格が飛び出てしまう・・この前の須磨海岸で豹変した時もそうね。ふだん大人し過ぎる沙希さんが、正反対の人格に変貌する」

「何人もいるんだな。そんな小清水さんが・・いつもはあんなに仏のような笑顔を見せている小清水さんが・・」

「それに・・」速水さんは少し言い澱む。

「それに?」と、僕は話を促す。

「いつもの沙希さん、鈴木くんが見ている沙希さんが・・本当の沙希さんとも言い切れないわ」

 そんなっ。

 そして、その後、速水さんは、

「沙希さんのたくさんある人格の内の一人・・つまり、いつもの沙希さんは、あなた・・鈴木くんのことが好きなのよ」そう言った。

「ずっと好きだったのよ」

 速水さんは僕の目を直視して言葉を続けた。その表情は真顔だ。

「えっ・・」

 いつものように眼鏡くい上げをせずに言った速水さんの言葉・・「ずっと好きだった」という言葉。

 それが、小清水さんの心情なのか、速水さん自身の心の言葉なのか、見分けがつかないほど、速水さんの表情は真剣に見えた。


「僕のことを・・」

 どう返していいのかわからない。

「ええ・・他の誰でもない鈴木くんのことよ」と速水さんは言葉を重ねた。

 そして、冗談なのか、皮肉なのか、判別できない口調で、「どう、鈴木くん、嬉しい?」と訊かれた。

「いや、そんなことを・・急に言われても・・」

 返す言葉を準備していない。

 小清水さんが、僕に好意を抱いている・・そんな感じはしていたが、それは男女の好意とはまた違うものだと認識していた。


 そして、速水さんはこう言った。

「鈴木くん・・返す言葉を準備しておいた方がいいわよ」

 それは、今の速水さんの言葉なのか、小清水さん本人に告げられた場合のことなのか?

 いずれにせよ、そんな言葉を僕が用意しているわけがない!

 これまでの人生で、女の子に告白したことはあっても、告白されたことなんて一度もない、そんな僕がどうしてそんな言葉を予め用意しているというのだ。

 

 黙っている僕に速水さんは、

「どうやら、鈴木くんには無理のようね」と言った。

 その言葉も返せない。

 僕は怖いのかもしれない。

 中学の時、石山純子に告白した時のことが頭に焼き付き、誰にも告白できない。

 それ故、誰かに告白されることなど頭に置いていない。

 そんな内容のことを速水さんに言うと、

「つまり、鈴木くんは、恋愛下手なのね」

「恋愛べたって・・そんな言い方はないだろ」と僕は抗議した。そんなつもりもない。

 そんな僕を見ながら、

「鈴木くんは、『ああ、振られたら、どうしょう』・・そんなことばかり、考えているのね」

 速水さんは皮肉たっぷりに言った。

 僕は、「ああ、そうだよ。速水さんの言う通り、僕はそんな恋愛恐怖症だ!」と投げやりに返した。

 そうだ、その通りだ。

 速水さんに言われて初めて、そして、自分で口にして、そう思った。本当に僕は恋愛恐怖症なんだ。

 誰かに思われていることに気づきかけても、知らないふりをしてしまう。それは本能的にそうしてしまう。一種の自己防衛なのかもしれない。

 そして、誰かを好きになっても、石山純子に振られた時のことを思いだし、告白に歯止めがかかってしまう。

 水沢さんに告白できないのは、そんな理由からだ。


「鈴木くんが恋愛恐怖症なのは、別に私はかまわないのだけれど・・沙希さんが傷つくのを見るのはつらいわね」

 速水さんはそう言いながら、珈琲に口をつけた。

 そして、

「だからと言って、鈴木くんが、沙希さんとつき合って欲しいとも思わないわ」

 その言葉・・引っかかる。

「どうして?」と僕は訊いた。

 速水さんは「だって・・鈴木くん・・」と少し言い澱み、

「そんな人と、交際できる?」と言った。

 速水さんは続けて、

「鈴木くんはそんな沙希さんとつき合うことができる? もし、鈴木くんにそんな気持ちが、あってのことだけれど」と言葉を重ねた。

 そして、

「さっき、沙希さんのことを目の病気に例えたけれど・・」

「目の病気・・欠けた視野を神経が補い、最悪の状態になるまで、本人は気がつかない・・だよな」

「ええ、よく覚えていたわね。偉いわ」

「おい、そこ、褒めるところか?」

 と僕は言って、「しかし、最悪の状態っていうのは・・」と話を戻した。


 もしかして、

「もしかして、小清水さんの人格が全部別人格に入れ替わる? そういうことか?」

 そんなひどい現象が起きるというのか。

「時間が経つとね、そうなるかもしれない・・確証はないけれど、誰もそうじゃないと言い切れないわ。別人格の方が力を持ってしまう可能性も、無きにしも非ずね」


 あの柄の悪い別人格が、仏のような笑顔の小清水さんを乗っ取ってしまう可能性・・

 想像したくない・・それはもう僕の知っている小清水さんではない。

 部室でお茶を入れてくれ、決して前に出ず、速水さんと僕の会話を静かに聞き、時折、ホッとするような言葉を間に挟んでくれるそんな心休まる存在の小清水さん。

 そんな彼女が別人格に乗っ取られる・・


「でもね・・そんな別人格の彼女も沙希さんであることに違いはないのよ」

「しかし・・イメージがあまりにもかけ離れている。僕の知っている小清水さんとは・・」

 少なくとも僕は別人格の小清水さんを受け入れることはできない。


 すると、速水さんは、

「あの子・・沙希さんはね、私に言ったのよ」

「なんて?」

「沙希さんは、鈴木くんがずっと好きだったことを私に打ち明けたのよ」

 そして、「沙希さんには、黙っているように言われたの」と続けた。

「僕に言っているじゃないか」速水さん、口が軽いのか。

 その言葉に対して速水さんは「そうね」と小さく返しただけだった。

「どうして、僕に言ったんだ?」


「沙希さんは、何となく、自分の心が制御できないことに気づきかけているのよ」

「小清水さんは、自分で自身の心のことを・・あっ・・」

 思い出した。

 合宿の読書会、「ギャツビー」の時のことだ。 

 小清水さんは突然、「ずっと好きなんです」と言った。言ってしまってから、戸惑っているように見えた。あれも自身の心の制御に対する不安だったのだろうか?


「薄々、小清水さんは心の変化に気づいている・・そういうことなんだな」

 速水さんは「ええ」と頷き、

「だからと思うのだけれど、沙希さんは、私にこう言ったのよ」

「小清水さんは、何て言ったんだ?」

「沙希さんは、『私は、鈴木くんを好きだけど・・心のどこかに、鈴木くんを好きじゃない私もいる・・そんな気がするの』・・と言っていたわ」

 そんなっ。


 さっき、速水さんが言っていた、

「鈴木くんは、そんな人と交際できる?」という問い。

 ・・そんな人とはつき合えない。

 それが全ての答えだ。

 人は人を好きになる時、人の心は一つだ。

 

 しかし、本当にそうだろうか?

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