第98話 傷の痕②

 速水さんは「脱がなくても・・ほら、こうして」と言って、背を向け両手で黒髪をかき上げた。

 速水さんの首筋が見えた。そこには、痛々しい青黒いあざが横に走っているのが見て取れた。

「それって・・」僕はどう言葉を返していいのか、言葉が見つからなかった。

「何の器具を使った跡なのかは、言いたくないわ」

 女性が見せたくない場所・・そこには何かの跡がある。 


「まだ、他にもあるわ」

 他にもって・・首以外・・考えたくない。

 それは消えないのか?

 速水さんは髪を戻すと、

「キリヤマの暴力の痕跡よ」と言った。

 暴力の痕跡って・・「その跡が今でも残っているっていうのか」

「消えたのもあるけれど・・消えないのもあるのよ・・いつまでも」

 その声は、速水さんのその声は・・

 まるで夕暮れの中に迷い込んでしまうような小さな声だった。小さいけれど、悲しく、僕の心に刻みつけられた。


 見るたびに思い出す・・忘れたいのに。

 それがあるがためにいつまでも消えない過去。

 そんなことを抱え込み生きているのか、速水さんは・・


「どう、鈴木くん・・もっと見たい?」速水さんはそのままの姿勢で言った。

 僕は・・

「それって・・ダメだろ・・」

 見てはいけない気がする。僕は速水さんにとって、そんな存在ではない。

「興味本位に見てはいけない気がするんだよ」

 それに、速水さんなら、男子に見せてはいけないところも見せそうだ。


「あら、私の体に、少しは興味はあるのね?」

「言葉尻をとらえるなよっ」

 速水さんの言葉にはいつも負ける。たじたじだ。


「私、鈴木くんになら、見せてもいいと思っているのよ」

 やっぱり、からかわれている。これって、一男子としていいことなのか?


「僕と速水さんが・・と、友達だからか? それとも部員だからか・・」部員は違うな。

「そうね・・友達では・・ないわね・・」

 あっさり否定された。勇気を出して恥ずかしいセリフを言ったつもりだったんだけどな。

一応、現在の僕には友達と呼べる人はいない。

「違うのかよ」

「うふっ・・友達と言って欲しかったのかしら?」

 お見通しだな。けれど、

 僕は「いや、別に・・」と言葉を濁した。

「そうね・・・鈴木くんと私は、あえて言うのなら・・『同志』かしら?」

「同志?」

「そう・・透明人間同士・・」

「それ、なんかイヤな響きだな・・」


 速水さんは僕の言葉に少し笑顔を見せると、

「あの男は、母のいない時を見計らって、いつも何らかのことを仕掛けてきたわ」

「一緒に住んでいたのは、速水さんが中学生だった頃だな」

「ええ・・そして、あの男のすることは次第に増長していったわ」

 更に過激になっていったっていうことか?

「母がいる時にでも、私に手を出すようになった」

「それはいくらなんでも・・」

 光景が目に浮かぶようだった。

「いつか、話したでしょ、乳もみ先生の話」

 僕が友達作りの女先生の話をした時のことだ。速水さんの小学校の担任の先生のエピソードだ。

「ああ・・宿題を忘れた子の罰として、生徒の脇腹をくすぐっていた先生か・・くすぐりながらついでに胸を揉んでいたという・・」

 結局、どちらか分からずじまいの。

「同じようなことを私もされたことがあるわ」

 え・・

「速水さん・・その男に、揉まれ・・」と言いかけ、僕は口を閉ざした。

「それも、母の前よ・・」

「それ・・虐待が母親公認っていうことか?」

「そうでもないわ・・あの男、母に言ったのよ・・『俺は沙織をくすぐっているだけだ』って」

 ・・開いた口が塞がらない。

「そしたら、お母さん、何て言ったと思う?」

「わからない」

「『お二人さん・・仲がいいのねぇ』って・・」

 速水さんはそこまで言うと、嗚咽のような声を漏らし、声を詰まらせた。


「そんな母に、疑われないように・・安心させるために・・私が何をしたと思う?」

 言葉を途切れさせながら速水さんはそう質問した。

「わからない・・もしかして・・されるのを・・揉まれるのを我慢したりしていたのか?」

 僕の想像に速水さんは首を振って、

「私・・必死で笑ったのよ・・くすぐられて笑いを堪える時のような声を出したの」

 ひどい・・

「でも・・そんなお母さんに対して、そんな芝居の必要があったのか? 正直に言えばいいだろ! お母さん、私、お父さんに揉まれてる!・・助けて、って」

 僕の中に速水さんの悲しみが伝わってくるのと同時に、激しい憤りが沸き上がってきた。


 大きな声を出す僕に、速水さんは、

「そう言うことが無駄だと、わかっていたのよ。中学生の頭なりに・・」

「ちゃんと言えば、きっと・・わかってくれる」

 だって、たった二人きりの母娘じゃないか。

「母はね・・精神疾患を患っていたのよ」

 病気?・・心の?

「その頃にはもう・・倫理観がほとんど欠如していたのよ」

 何がそこまで速水さんの母親を変えたのだろう?


「・・速水さんのお母さんは、まだその男と一緒にいるんだな?」

「ええ・・母と、内縁の夫は、似た者どうしかもしれないわね。まだ一緒に住んでいるようだから」

 この町の南にその家はあるらしい。

「速水さんの母親には悪いけれど・・いくら病気でも、娘に関心なさすぎだろ・・それにおかしすぎる」


 そう言った僕の言葉に速水さんは答えなかった。

 いつまで待っても、速水さんの声は返ってこなかった・・

 ただ、西陽の差す部室に静かな嗚咽が漏れていた。


 しばらくして、速水さんは、何かを呑み込むように、

「ごめんなさい・・これ以上、話すのはよしておくわ」

 速水さんはそう言った。

 いつもの速水さんらしくない口調だった。


 速水さんは、もうこれ以上、話すことが出来ないし、思い出したくないのだ、と僕は思った。


 速水さんはこんな思いを抱きながら、この薄暗い部室に遅くまで残っている。

 僕は何もできない・・

 僕を守ってくれた速水さんに対して、

 何も返せない・・

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