第77話 マドンナ先生のために②

 指定されたようなアイスコーヒーを飲みながら、先生から聞いた話はこうだった。

 池永先生は友達と称する同年代の女性からお見合いパーティーのようなものに誘われて参加した。

 先生は例の体育の藤村先生にふられ、意気消沈の身。

 その友達は、先生の失恋話を聞かされて、そのパーティーに誘ったのだ。

 ・・先生、いろんな人に自分の失恋話をしまくっているんじゃないのか?


 先生はそのパーティで結構人気だったらしい。

「自分で言うのもなんだけどね」と前置きをして、先生はそう言った。

 そりゃ、そうだろ。健全な男子なら、年齢を問わず、池永先生のような美人先生を見ればお近づきになりたくなるだろう。その証拠に隣の席の中年おじさんがチラチラとこっちを伺っているのがわかる。

 先生はそれに気づいていない。

 どうも先生は思われる方に鈍感のようだ。

 ・・得てして、物事はそういうものなのかもしれない。

 それに本日の先生の出で立ちはいつものパンツスーツではなく、ミニスカートだ。足を組むと更にその太腿が剥き出しになる。男に付けいれられる隙をわざわざ与えているような気もする。


 そして、先生の話は続く・・

 先生に寄ってきた男たちの内の一人に問題があったらしく、しつこく先生につきまとっているらしい。

 先生の職場、つまり高校名だけは相手に知られているので、先週から校門前によく現れるようになったらしい。最初は用事があるから、とか適当に誤魔化してきたのだが、つきまといの行為は次第にエスカレートして、先生が一人でいるところを見ると、すぐに寄ってきて、今度の休み、映画でも、とか食事とか誘われるらしい。


 絶対に家だけは知られてはいけないので、職員には報告済みということだ。

 先生方々からも、できるだけ同じ方向の生徒達と一緒に帰るように、と言われているらしい。

 ・・ということで、本日、生徒である僕に声をかけたというわけだ。

 大丈夫か? 職員方々よ・・

 生徒の僕の身に何かあったらどうするんだよ?


「先生、その男の人に何か思わせぶりなことを言ったんじゃないですか?」

 おそらく、そんな気がしたので言ってみた。

 返答は案の定だった。

「私、博愛主義だから・・誰にでも愛想よくしちゃうのよね」

 ああ、そうですか・・博愛主義ねえ・・先生のこの雰囲気で愛想よくなんかされた日には、たいていの男は自分に気があるとか勘違いしてしまうんだろうな。

 天真爛漫・・ちょっと違うが、少し子供っぽいところもある。僕より、何歳も大人なはずなのに、なぜか放っとけないような気持ちを起こさせる。


 だが・・今はそれよりも・・

 僕は重大なことに気づいた。

 先生の話・・面白くないことはないのだが、やはり、僕にとっては興味のない話だ。そんな話を聞くにつれ・・眠くなってきたのだ。下校時だったのでカフェインも飲んでいない。

 眠気を我慢し始めると透明化する。

 そうなる前に先生の前から立ち去らないと・・

 ・・眠気に耐える心の動きは必然的に発生する。

 つまり、誰しも、こんな所で寝ようとは思わないからだ。

 小清水さんといた本屋さんの経験では、僕はおそらく3分ほどで透明化する。


 帰るか・・それとも・・

 小清水沙希の時のように・・トイレに・・

 いや、ここは喫茶店のトイレだぞ。

 元の体に戻るのに30分かかる。それまでトイレに閉じこもって、あとで腹を壊しましたとか、言い訳をするのか? 店にも迷惑がかかる。

 しかし、とりあえずは・・


 その瞬間だった・・

 ある男の動きが気になった。

 それはさっきから池永先生の方を欲望じみた目で見ていた隣の男の目だ。

 男はコーヒーを飲みながら先生をチラチラと見ていたはずだった。

 だが今は、何かを気にしているように店の窓に目をやっている。 

 男の視線の先・・店の窓の外・・

 僕はゆっくりと店の窓の外に視線をやった。

 そこには男が窓に貼りつくように立っているのが確認できた。

 そいつは校門前からつけていた40男だった。


 もしあの男が池永先生をつけている男なら、先生にそのことを言わなければならない。

 どこかに誘われるくらいならまだいい。何かされたりしたら・・

 男は僕と目が合うと、にやっと笑った。

 よくもまあ、先生は博愛主義とはいえ、あんな男と口を聞いたものだ。そう思ってしまうくらいの陰湿な雰囲気を持った男に見える。


 いつか、僕は考えていた。

 透明化が人の役に立つこと・・僕にそんな感情が根付くようになったのは、僕に透明化の能力があるとわかってしばらくしてからだった。

 せっかく、こんな誰にもない素晴らしい能力があるのに・・

 少なくとも、女子更衣室の覗きみたいに変なことに使うよりはいいだろう。

 いつか速水沙織は言っていたっけ。

 透明化の最中に心が怒りとかで暴発すれば、本当に消えてなくなる・・

 だが、これは心の暴発ではない。

 冷静な判断に基づく行動だ。

  

「先生・・ちょっと、僕、トイレに」

 と言って立ち上がった。

 僕はまず店の奥にあるトイレに入った。鏡を見る。一分ほどで僕の姿は鏡に映らなくなった。

 トイレから出ても、僕の体は誰にも見えない。高校生が一人、トイレに入って出てこなくても誰も不信には思わないだろう。

 僕は透明のまま、トイレから出た。

 ここからだ。少し勇気がいる。

 腕時計を見る・・元の体に戻るまであと約20分ほど。

 ・・僕は喫茶店の外に出た。

 勝手に開いたドアを店の人が訝しげに見ていたようだが、どうでもいい。

 僕の体は、店の窓に貼りついている男に向かった。

 男は池永先生を舐め回すように見ている・・そう見えた。僕が不在になったことで店内に入るかもしれないし、僕がトイレから戻らずしびれを切らした先生が店の外に出るのを待ち構えて何かするかもしれない。

 恋に冷静な判断を失った大人は何をするか、見当がつかない。

 

 僕は静かに男の背後にまわった。

 男の身なりを見る限りではごく普通のサラリーマンのようだ。中肉中背。とくに腕力がありそうな感じでもない。これならいける。

「おい!」

 僕は男に大きく声をかけた。「おい!」なんて声のかけ方、僕のこれまでの人生でなかったんじゃないか?

 あたりまえだが、男は振り向いた。

 だが、そこに僕はいない。

 男の視線が定まっていない。

 僕は自分の透明化を確信した。男には僕は見えていない。


 男は自分が声をかけられたにも関わらず、声の主が見当たらないので、目をきょろきょろさせている。少し愉快だ。

 そして、僕は、

 男の肩に手をかけた。

 その瞬間、男は「ひっ」と短く小さな声を上げた。

 そのまま僕は男に顔を近づけた。男の顔に僕の吐く息がかかるくらいに近づくと、

 僕は言った。

「オレの女に何の用だ?」と・・

 少しは迫力をつけて言ったつもりだ。けれど、そんな必要もないのかもしれなかった。

 男の肩はガタガタと震え、瞳孔は大きく見開かれ、視線はその行き場を失っていた。

 当たり前だ。

どこの世界に透明人間に肩を掴まれ、かつ、話しかけられた人間がいるだろう。


「今度、カオリに近づいたら・・その時は・・」

 僕のセリフが終わらないうちに、男はおかしな叫び声をあげ僕の腕を払い退けるようにして走り去っていった。


 僕はその時、思った。

 これではまるで・・本当の生霊みたいだ。池永先生にとりつく生霊。

 生霊と言えば・・

 あの雨の放課後、水沢さんには僕がどう見えていたのだろう?

 加藤は言っていた・・

「純子には、人には見えないものが見えるんだって」と。

 その現象は、透明になった僕が完全に見える母、文芸サークルの速水沙織、

 そして、僕の姿を半透明状態で認識する妹のナミ、小清水さん。

 それらの人の見え方とは全く違う気がする。

 水沢純子というその人の何か特別な力なのか?

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