第45話 触れ合った手と手②
「佐藤、悪い・・ちょっと用事が・・」
と言いかけた・・
その時だった。
それまで僕に向けられていた佐藤の視線が、僕の背後に向けられた。
そして、佐藤は、
「おい、鈴木、水沢さんだ」と言った。
佐藤の言葉に慌てて振り返ると、
確かにそこには佐藤の言う通り、水沢さんがいた。
「鈴木くん・・佐藤くん」
さっきまでの眠気が吹っ飛んだ。
「み、水沢さん・・」
なぜか、今日も水族館に引き続き、ポニーテールではない。
いつも窓の空を背景に見ている水沢さんの姿が、今は、きれいに並んだポプラの木を背景にしている。
青から緑へと変化した背景が新鮮に映る。
けれど、今は、そんな水沢さんを見ている場合ではない。
どうして彼女がこんな場所にいるのか? ただの通りすがりなのか、それとも・・
「ゆかりがね、二人が裏庭で話しているのを見て・・」
そういうことか。確かにここは2階の廊下からは誰がいるか、丸見えだ。
裏庭は内緒話には相応しくない。
以前、ここで速水さんと話をしたことがあったが、あの時は僕が速水さんと話している所を誰に見られてもかまわなかった。
けれど、今は違う。僕と佐藤が話をしていると、その内容をある程度、推測する人間が一人いる。
それは加藤ゆかりだ。
佐藤が傷つけた女の子だ。
水沢さんは言いにくそうに、言葉を選びながら僕たちに向かって話し始めた。
「ゆかりが佐藤くんに言っといて、って・・」
・・加藤からの言伝か。
「ゆかりは、佐藤くんのことを、もう気にしてないって・・」
そんなことはない、と思う。加藤はああ見えて、けっこうナイーブな所がある。
「それだけを佐藤くんに伝えて欲しいって」
水沢さんの話を聞き終えた佐藤は、
「悪かったよ」と言いながらも、よくわかっていない様子だ。「さっき、鈴木にたっぷり絞られたからな」
水沢さんは「ゆかりの言伝は、これだけだから」と締めくくるように言った。
そして、
「さっき、佐藤くん、鈴木くんに、友達じゃないの? って言っているように聞こえたけど」
水沢さんはその辺りまで僕と佐藤の話を聞いていたのか。
「私には、佐藤くんと鈴木くんが友達同士にはとても見えないの」
そうさりげなく水沢さんは言った。
普段、自分の意見をあまり主張しているのを聞いたことがない水沢さんのセリフだった。
「は?」
佐藤は一目見て不愉快とわかる表情をした。
「そんなの、俺の勝手だろ」
水沢さんは黙っている。同じく僕も。
佐藤は「俺」と言った「俺たち」と言わずに。佐藤は僕を利用している。自分と同等の人間と並ぶより、優劣がはっきりとわかる方が気持ちがいいのだろう。世の中にはそういう人間もいるということだ。
「私がそう思っただけだから・・」
水沢さんは続けてそう言った。
二人のやり取りを聞きながら、僕は水沢さんの姿を見ていた。
僕の斜めの窓際の席に座る水沢さん。授業中、教師に指名され、的確に正解を述べる水沢純子。
水族館での私服姿。短いながらも会話をした時の水沢さんの笑顔。
そして、今の水沢さんはどんな彼女なのだろう?
先に口を開いたのは佐藤だ。
「いくら、勉強が出来て、そのうえ男子に人気があるからといって、男同志の話の中に入ってくるなよ」
虫の居所が悪いのか、佐藤は水沢さんをここぞとばかりに責めたてた。
佐藤と僕は男同士とか、ご大層なものじゃない。水沢さんにこれ以上ひどいことを言うと僕が許さないぞ。たぶん僕の顔は興奮のために紅潮してたと思う。
たがそれ以上に水沢さんの顔が・・
「ゆかりはね、佐藤くんと同じ大学に入りたい・・そんなことまで考えていたのよ」
加藤は懸命だった。二つの部を掛け持ちしながら、勉強をしていると水沢さんから聞いた。
「そんなこと言われても、俺、知らねえよ」
佐藤の定理は常にそうだ。
そして、佐藤はこう言った。
「それに、加藤の学力なら、俺の志望校に入るのは無理だろう」
その言葉の意味を理解するや否や、僕は、
佐藤の奴、ぶっ叩いてやる!
僕は拳を強く握りしめた。
水沢さんにも暴言を吐き、加藤ゆかりまで侮辱する佐藤は許せない!
「おい、佐藤!」
僕がそう言った時だった。
・・それは一瞬の出来事だった。
僕の前の空気がふわっと浮き上がったような気がした。
目を疑ったが、
それはまさしく水沢純子、その人の平手打ちだった。
一瞬、佐藤の頬がたわみ、醜く歪んだ。
水沢さんの手が離れると同時に佐藤は頬を押さえた。
水沢純子・・教師の出題した数学の難問をクラスでただ一人解いた生徒。
数学教師の言葉が頭に残っている。
・・「この問題が正解だったのは水沢だけだ」
きっと、あの時、僕の恋が始まったのだ。
いや、それは単なる憧れだったのかもしれない。
けれど、この瞬間、僕の恋は、もう一歩、前に進んだ。
「佐藤くんこそ、女子に人気があるからといって、調子に乗らないでっ」
これまで聞いたこともない水沢純子の大きな声だった。水族館の語らいとは全く違う声だ。
水沢さん、少し怖い・・
怖いけれど、きれいだ・・何もできない僕は見惚れるだけだった。
そんな彼女を見つめながら、僕は・・
僕自身が、ある女の子に平手打ちされたことを思い出していた。
あれは、中学三年の時・・思い出したくない・・
そんな回想をしていると、水沢さんは呼吸を整えながら佐藤に、
「佐藤くんも、女の子としてのゆかりには興味が無くても、一応、友達ぐらいなら、って言ったのでしょう」と言った。
ただ、加藤ゆかりは佐藤の奴を叩いてとは、お願いしていないだろう。
これは水沢純子の感情なのだと、理解した。
「だからっ、友達だから、鈴木に話すように話してただけなんだ・・それなのに」
ああ、こいつ、全然わかっていない。水沢さんも怒るだけ無駄だ。
そして、佐藤の感情はダウンしている。
しかし、水沢さんがこんなに感情を昂ぶらせたのには、僕に一因がある。イルカショーの時、加藤と水沢さんには謝ったが、
ここは・・水沢さんと佐藤の感情を抑えこむためにも僕が、もう一度・・
そう思った時、
僕の手に柔らかいもの・・いや、手が・・
それは紛れもなく女の子の・・
水沢純子、その人の右手だった。
その感触を楽しむ余裕もなく、僕の左腕は勢いよく、ぐいっと引っ張られた。
「鈴木くん、もう行きましょうっ」
僕の手を力強く引き、水沢さんは裏庭を駆けた。
しばらく進むと、水沢さんは僕の手を離し「鈴木くん、ごめんなさい」と言った。
夢のような時間は、短いほど、価値は増す・・そんなことを一瞬で学んだ。
僕は「僕こそ、ごめん。水沢さんをこんなことに巻き込んで」と返した。
水沢さんは「ううん」と首を振って、
「私はいいの。ゆかりのために乗りかかった船だから」と言った。「ゆかりがもう気にしてないって、佐藤くんに言いに来ただけなのに、ちょっと興奮しちゃった」
確かにあんなに激しい水沢さんを見たのは初めてだ。
そして、そんな水沢さんを知っている僕は、他の男たちに対して優越感を抱いた。
佐藤のいた方を見ると、佐藤はもういなかった。
「佐藤くんを叩いちゃったから、ゆかりに叱られるかも」と水沢さんはぺろっと舌を出して笑った。
「加藤には、ぼ、僕が説明するよ」声がうわずる。さっきの水沢さんの手の感触が忘れられない。
「本当?」
僕は「一緒に二階に上がろう」と言った。昼休みの終わりまでまだ時間がある。
水沢さんは二階の廊下で加藤に会うと「ゆかり、見てた?」と訊いた。
加藤は笑って「純子の・・しっかり見ちゃったよ」と答えた。
加藤ゆかりは二階から様子を伺っていたのだ。
約束通り、僕は加藤に水沢さんのとった行動の経緯を説明した。
話を聞き終わると加藤は、
「やっぱり、鈴木はいい奴だね」と加藤らしい健康そうな笑みを浮かべた。
そして、
「私、もう気にしてないけど、今の鈴木の話を聞いたら、純子が怒ったのも頷けるよ」と加藤は言った。
「ゆかり・・佐藤くんは・・」水沢さんはそこで言い澱んだ。
加藤は「わかってるよ、純子。私、もうとっくに佐藤くんのことは諦めてるから」と言って、
「私、男を見る目がないのかなあ」と笑った。
そして、
「佐藤くんより、鈴木の方がよっぽどいい男じゃん」と言って悪戯っぽく微笑んだ。
え? 僕が佐藤より? あのモテモテの佐藤よりも?
「これまで鈴木のこと、影が薄いだけの男の子かと思っていたよ」
悪かったな。影が薄くて。
「ちょっと、ゆかりっ・・」水沢さんが加藤を制するように言った。
なぜか、うろたえるような仕草を見せる水沢さん。
と、そこに、
「こらあ、そこの三人さん・・仲がいいのはいいけど、もう授業、始まるわよぉ」
英語の池永先生だ。自慢?の体をうねらせながら、廊下を颯爽と歩いている。教室に入らず、廊下でぐずぐずしている生徒たちに声をかけている最中のようだ。
話の途中だったけれど、僕たちは教室に戻った。
席についても、僕の左横には加藤ゆかり、その前には水沢さん。
この位置が永遠に続けばいいと思う。
けれど、夏休みが過ぎ、二学期には違う並びになる。
そんなことを考えていると、背中をツンと押された。
・・速水沙織だ。
振り返ると、いつもの眼鏡をくい上げして
「鈴木くん、また、にやついてるわね・・」と言った。
「後ろから、なぜわかる?」と訊くと、
「鈴木くんの背中に書いてあるわよ・・それに厭らしさを感じるわ」
確かにそうかもしれない。速水沙織に指摘されるまでもなく、僕の心は浮いている。
それはどうしてか?
そんなの決まっている。
片恋の相手・・水沢純子の手に触れたからだ。
ん?
それって、加藤ゆかりに見られていなかったのかな? 二階の窓からだと、誰にでも見られる。
他にも、誰かに・・
少なくとも、速水沙織には、さっきの様子だと見られてはいないみたいだ。
まっ、いいか。そんなに秘密にするものでもないし。
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