六.稲妻
第二の封印が解かれてから数日、王国中がバタバタしていた。何せ〝神のご加護〟が効かなくなって、人が突然死ぬようになったのだ。未曾有の出来事に人々は怯えている。
サルディス家のヨルン様もお気の毒に。もう少しで何事もなく務めを終えられたというのに。
そういえば今度、国王陛下が聖騎士七家を王都に招集するらしい。各家の領地の状況を報告し今後の対策を検討するとのことで、旦那様は現在第一都市オーシムを駆け回っていらっしゃる。休息の時間を極限まで削るほどのご多忙の中で、旦那様は僕にひとつ頼み事を託された。
「アラン。私の代わりにシシィの傍にいてやっておくれ。あの子は誰よりも繊細だ……こんな時に父親らしいことを何もしてやれない私の代わりに、あの子を頼んだよ」
シシィ様はあの日以来、暗く沈んだ様子でいらっしゃる。無理もない、王国史上初めての困難なのだから。いずれは国の一端を担われるその肩は、簡単に折れてしまいそうに繊細で、か細い。
僕にとって、命の恩人であるフィラデルフィア家の方々は何にも代え難い存在だ。そんな方々が今、未曾有の出来事に心を痛められている。
そんな時こそ、僕に何かできないだろうか。できる限りの力で、この方々をお支えしたかった。
今日は厨房にお邪魔して、料理人のエリザさんと一緒にシシィ様のお好きなフルーツタルトを用意した。リンゴをトロトロになるまで煮込んだピュレをカスタードと一緒に敷き詰めて、ベリーとスライスしたアーモンドをこれでもかと散らしたタルトだ。粉糖がふんわりとまぶしてあって、冬の贈り物が凝縮されたかのような、それはそれは魅惑的な出来映えだった。僕とエリザさんとで、シシィ様のために作った逸品だ。
この素敵なお菓子をバスケットに詰めて、お茶の道具を用意して、シシィ様のお部屋へと向かう。
「シシィ様。今お時間はありますか?」
もちろんシシィ様の予定は確認済みだ。その上で、あえて僕は尋ねる。
「……ええ。ありますが、アラン。どうしたんです?」
「旦那様からの言伝です。お出掛けしますよ、シシィ様」
僕の言葉の意味がわからない、といった風にシシィ様は目をぱちくりとさせる。そんな彼女の手をとって、僕は窒息しそうな部屋の中から、半ば強引にシシィ様を連れ出した。
「どこへ?」
「どこへでも! さあ、行きますよ」
僕は知っている。生来活発なシシィ様は、定期的に外へ出なければ息が詰まってしまうことを。土に手を触れ、澄んだ空気を吸いこんで。そうしなければシシィ様は、シシィ様らしく生きていけない。そう、こんな非常時なら尚のこと。
今日の天気は曇り空。絶好の行楽日和とはいかないものの、この時期にしては少し温かい日だった。転送台は使わずに、自分たちの足で歩くことにする。目的地には、オーシムの外れの緩やかな丘を選んだ。
初めは状況がよく呑み込めていないようだったたシシィ様だったけれど、歩いていくうちに顔が上を向き、足取りが軽くなってゆく。丘を登り始める頃にはすっかり普段のシシィ様らしくなっていた。やっぱり、シシィ様は飢えていらっしゃったのだ。
「空気が美味しいですね。こんなに長い間部屋に引きこもっていたのは初めてかもしれません」
いつしか丘の中腹あたりの景色の良い場所までやって来た。万全の用意をして来た僕は、手際良く焚き火を起こしてお湯を沸かし、美味しいお茶の用意をする。
「さあシシィ様。お茶が入りましたよ」
ここで僕は、とびきりのお菓子を取り出した。シシィ様のために用意きた、完璧な出来栄えのフルーツタルト。驚いて目を丸くするシシィ様を期待したけれど、浮かんだ表情は真逆のものだった。
「……ごめんなさい。気を遣わせてしまいましたね」
「気になさらないでくださいよ。僕も食べたかったし。折角の外出なんですから、このくらい何でもありませんよ」
さあ、いただきましょう。僕がそう促すと、シシィ様は心ここに在らずといった様子なまま、いただきますとお茶に口をつけた。その様子は心に引っかかるものだったけれど、ひと口飲んで落ち着かれたのだろうか。シシィ様はものものしい様子で口を開く。
「アラン……笑わないで聞いてくれますか? 私の見た、夢の話を」
もちろんだ。僕が真剣な様子のシシィ様を笑うだなんてあり得ない。
「それは怖い夢ですか?」
「怖い……そう言われてみれば、怖かった気もします」
あまりにも現実味を帯びていて、夢と呼ぶにはとても不思議な体験でした。シシィ様の口調はまるで、お伽噺の始まりかのようだった。
「怖い夢は、誰かに話してしまうと楽になるらしいですよ。一番に打ち明ける相手に僕を選んでくださって、ありがとうございます」
ひとつ深呼吸をして、最後の決心がついたのだろうか。シシィ様はまっすぐな眼差しで、ぽつりぽつりと話し始める。
あれは夢のはずでした、とシシィ様はおっしゃった。イカロス四号機から落下したあの日、不思議な夢を見ていたのだと。
夜の闇を集めてきたかのような、暗く静謐な空間。そこで見たという鏡の中の少女は、恐らく〝ルシファー〟なのではないかと僕でも簡単に想像がつく。
シシィ様は鏡越しに、ルシファーとともに捕えられ。目を奪われるほどに美貌の男が、不穏な言葉を口にする。
「……〝死が甦る〟ですか。それって」
「おそらく、サルディス家の封印を指すのだと思います……私がこの話をもっと早くにしていれば、封印は何とかなったかもしれないのに」
シシィ様の夢は、確かに怖いものだった。心の中までざわざわと粟立つのを感じる。不吉な光景が僕の脳裏を駆け巡り、そんな未来を考えてしまった僕自身に底知れない憤りを覚えた。
「そんなことを言ったって、夢は夢です。信じて動いてくれる人なんてほとんどいないことでしょう。シシィ様がご自分を責める必要はありませんよ、絶対」
「いえ、それだけではなかったんです。夢で見たあの場所は、私の家の地下……〝鏡の間〟そのものだったのです」
小高い丘に、そよ風が吹く。シシィ様と僕の他にも、この佳い天気にハイキングを楽しむ人々が数組散見された。
何気ない日常を切りとったこの風景を、ずっと見ていたいと思った。そうしていないと、非日常に隠れた人々の営みが消えてしまいそうな。不意にそんな気に駆られたのだ。
「異端の罰が怖いのではありません。私は、聖騎士家の娘として許されないことをしてしまったのですから。今さら罰を怖がったりはしませんよ……ただ恐ろしいのは、私のせいで
「そんな……僕は、シシィ様を異端だとは思えません。誰もシシィ様を責める人なんていませんよ」
そう都合よくは行かないことを、言った後ではたと気づく。
「いえ、全ての人が私のしたことに納得できるはずありません。こうなってしまった以上、然るべき時に私は何かしらの罰が下るのでしょう。それまで私は、私にできることをするしかありません」
お優しいシシィ様。僕は今でも、空を飛ぼうとしたシシィ様を異端だとは思えない。
母を想う心を異端と呼ぶのなら、そんな神様を僕は信じない。
「折角のお茶が冷めてしまう前に、いただきますね」
シシィ様の目がぎゅっと細められ、澄んだ瞳に影を宿す。大人への階段を登るうちに、シシィ様は様々なことを身につけられた。その場に相応しいように振る舞うこと。淑女らしく声を荒らげないこと。そして、嘘を吐くこと。
ただ、その目は変わらずあの日のままだ。
あれからもうすぐ八年が経つ。汚らしい捨て子だった僕が、幼いシシィ様に拾われたあの日から。その日が、僕の記憶の始まり。
どういうわけか、僕には拾われる以前の記憶がない。拾われるまではどのように過ごしてきたのか。親は誰なのか、それまで誰と過ごしていたのか。何故、消えない傷を負ったのか。何もわからない。
「アラン、このタルト本当においしいです! 前から思っていたのですが、お菓子作りの天才ではないですか」
シシィ様の頬が緩む。多少の無理は垣間見えるものの、久しぶりに見る、花が開くような笑顔だった。それは、僕が何よりも大切にしなければならなかったもの。
惨めな僕を見つけてくださったシシィ様。あの日のシシィ様は、幸福を運ぶ天使のように僕の目に映った。僕の記憶は始まりからずっと、シシィ様で一杯なのだ。そんな僕は、この世界で一番幸福だ。だから僕もシシィ様を幸福にして差し上げなければならない。それなのに。
「ふふっ……何だか、久しぶりにさっぱりした気分です。やっぱり私は、うじうじするのは性に合わないようですね。アラン、連れてきてくださってありがとうございます。アランがいなければ私、身体中にカビが生えてしまっていたかもしれません」
それでもシシィ様は、多少なりとも僕を必要としてくださる。僕に向けられたシシィ様の微笑みは、天使の微笑そのものだった。醜い傷――僕の身体右半分に刻まれた、ひび割れのような赤い筋。人目に触れぬよう隠し続けているその傷を、シシィ様は綺麗と言ってくださった。嵐の夜に空を駆ける、稲妻のように鮮やかだと。
あの日から僕には、シシィ様しかいない。簡単なことだ。僕の全ては、シシィ様のために。
貴女様の運命がどうであれ、僕は、この命の限りシシィ様をお守りします。
一組の家族が、帰る支度を始めた。父親に母親、きょろきょろと落ち着かな気な男の子に、よちよち歩きの女の子。
両親が片付けをしている間に、男の子が何かを見つけて走りだす。つられて女の子も、おぼつかない足取りで兄の後を追う。
そして、シシィ様と僕のすぐ目の前で女の子が転んだ。
初めは何が起きたのかわからない、といった様子できょとんとしていた。そして次の瞬間、痛みを感じて泣き始めた。
ああ、可哀想に。僕が動くよりも先に、シシィ様が女の子に駆け寄っていた。
「痛かったね、よしよし……」
服が汚れるのも構わずに、シシィ様が女の子を抱き起こす。〝神のご加護〟はもう存在しない。女の子の怪我した膝は、すぐには治らないだろう。シシィ様はハンカチを取り出し、擦りむいた膝を止血する。痛い、痛いと泣きわめく女の子の頭を、シシィ様は優しく撫でた。
「大丈夫だよ。ごめんね……痛いよね、ごめんなさい」
女の子の両親が泣き声に気づいたようだ。あらあらすみません、と口にしながら足早にこちらへやって来る。その時、シシィ様は女の子を抱き締めた。
「ごめんなさい……本当に、ごめんなさい……」
シシィ様の声と肩が震えている。泣いていらっしゃるのか。女の子も自分が泣いていたことを忘れて、不思議そうにシシィ様を見上げる。
僕は心臓を握り潰されたような心地だった。シシィ様を抱き締める奥様は、もうどこにもいらっしゃらない。お忙しい旦那様にはシシィ様が遠慮なさって、涙すらも見せないだろう。
幼子を
不意にある考えが浮かんだ。ここで僕が抱き締めて差し上げたなら、シシィ様はどう思われるのだろう。
……いや、だめだ。僕なんかには不分相応だ。
シシィ様。奥様にもう一度会いたいと、空に想いを寄せたシシィ様。確かに禁じられてはいるが、空に焦がれる姿はまるで、元の住処に還らんとする天使のように僕には思えた。
誰が、その純粋な心を咎めようか。
誰が、天使の羽をもぎ取ることができようか。
ただ、僕には何の力もない。シシィ様の潔白を誰よりも僕が知っているのに、それを皆に、そして神様に知らしめるだけの力が欲しいと、この時ほど渇望したことはなかった。叶いもしないということは、痛いほどに思い知っているけれど。
僕にできることと言えば、シシィ様が泣き止むまで黙って寄り添い、その肩に手を置くことだけだった。
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