三章 呪われるバースデー 3—2
*
少し前。
五条通のマンション。
書斎にこもった蘭は、一心不乱にパソコンのキーボードをたたいていた。
最初は父のことが心配だった。だが、書きだすと、いつのまにか熱中していた。
だから、薫がマンションを出ていったことにも気づいてなかった。もっとも、書斎は防音だ。外で起こっていることには気づきようがない。
キーボードをたたく音だけが、かすかにひびく。
その静けさのなかで、カタリと小さな音が背後でした。
薫だろうか?
以前、一度だけ、お茶を持ってきたことがある。
正直言うと、書いているところを人に見られたくない。小説には自分のいまわしい部分をぶつけているので。
この前のとき、薫は、かなりビビッてたので、もうのぞかないだろうと思っていたのに。
今後は、こっちが呼ばないかぎり、書斎には入らないでほしいと言っておかないとダメか。
薫のことは好きだが……いや、好きだからこそ。自分の汚い部分は見せたくない。
「かーくん」
ふりかえった蘭は、ギョッとした。
戸口に立っていたのは、薫ではなかった。
ぼうし、マスクにサングラス。黒のロングコート——八波だ。
数メートルで対峙した八波は、たしかに蘭に酷似していた。
カガミに映る自分のように。異次元から来た、もう一人の自分のように。
(なぜ、八波が、ここに?)
一瞬、もう一人の自分だから、静脈認証装置が蘭本人と認識したのだろうかと、バカな考えが浮かぶ。
しかし、よく見れば、八波の出現方法はわかった。ワープでも分身でも、魔法でもない。
ドアの向こうに薫が、たおれている。目はあいている。意識はあるようだ。でも、体の自由がきかないらしい。
スタンガンだ。これまでの人生で何度も直面した人工稲妻発生装置。
自由意思をなくした薫をカギがわりにしたのだ。薫の指があれば、エントランスは突破できる。
そのためには、薫をいったんマンションの外へ誘いださなければならない。その手段も想像がついた。
井上を利用したのだ。薫は彼女を完全に信用していたから。
(ほんとに、すぐ、だまされるんだから。まあ、そこが、かーくんのいいところなんだけど)
井上のことは、少しおぼえている。
中学時代、沙姫がいつも彼女といたからだ。沙姫のかげにかくれて、目立つことはなかったが。
だから、とても意外だった。沙姫の死後、井上がしたことを人から聞いたとき。
あの地味で、おとなしい子が、そんなことをしたのかと、おどろくような内容だった。
たとえ、他の女の子に、おどされて、やったとはいえ、許せることではない。
井上が、どんなに苦しんでいても、自業自得にしか思えない。
井上が接触をもとめてきた瞬間から、うさんくさい気がしていた。
(やっぱりね。こんなことだろうと思った)
居酒屋での情報を八波に流しただけではない。もっと深いところで共犯関係にあるらしい。
それにしても、こまったことになった。
蘭は今、完全に無防備だ。
外出するときは防犯グッズを持ち歩いている。が、室内でまでは身につけていない。
対して、八波は少なくともスタンガンを持っている。
頼みの綱の猛もいない。
自分で、なんとかするしかない。
蘭はイスから立ちあがった。八波を刺激しないよう、微笑する。
「やあ、もう一人の僕なんだってね」
表情は見えないものの、八波は喜んでいるようだ。声がはずんでいる。
「そうだよ。蘭。ずっと会いたかったんだ」
蘭は八波を正面に見たまま、後ろ手に卓上の広辞苑をつかんだ。
「話には聞いてたけど、僕たち、似てるみたいだね。もっと近くで見てみたいな」
そう言って、近づく。八波に手の届くところまで来ると、いきなり広辞苑で、なぐりかかった。
八波は、まさか蘭が攻撃するとは思ってなかったようだ。
頭部を辞書で、なぐると、あっけなく倒れた。
そのひょうしに、八波のサングラスが床に落ちた。
蘭は息をのんだ。話を聞いて想像していた以上に、重度の傷跡だった。
八波は両手で顔をおおって、泣きだした。
「なんで、こんなことするの? 僕は君なのに」
むしょうに、ぞッとした。
蘭は再度、広辞苑をふりあげた。しょせんは紙のタバ。殺傷力は低い。相手が弱ったところで、スタンガンをとりあげるつもりだ。
だが、そのとき、薫が言った。
「うしろ……らん……さん」
ハッとしたときには、ドアのかげから、誰かが、とびだしてきた。
油断した。
八波は一人ではなかった。
電撃をあびて、蘭の意識は遠のいた。
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