二章 擬態する殺人 2—3

 *


 ようやく警察から帰宅をゆるされて、桜井駿矢は西陣にある自宅へ帰った。

 昔ながらの店舗と住居が共同の町家は、採光にとぼしく、うすぐらい。日が暮れると、もう夜中のようだ。


「ただいま」


 誰の返事もない。

 今日は日曜だから家業は休み。

 母はまだ病院から帰ってないのだろう。


 このごろ、父は容体が悪く、入退院をくりかえしている。たぶん、もう長くないのだ。

 沙姫のことがあってから、父は急に、ふけこんだ。

 いや、正確に言えば、沙姫のことで訴えた、あの裁判に負けてから。


 沙姫は本当に可愛かった。

 わが妹ながら、容姿のよさにくわえて、性格もよかった。


 それは兄妹だから、ケンカしたことがないわけじゃない。

 でも、沙姫のいいところは裏表のないところだった。

 ワガママ言ったあとも、自分が悪いと思えば、素直に謝ってきた。

 沙姫と長らく、いがみあってることなんて、はなから、できない相談だ。


 幼いころから、沙姫は小柄で、体力的に駿矢よりずっと、おとっていたし。

 妹とは小さくて、たよりなく、守ってやらなければならない存在だった。


 その守るべきものが、急に消えたのだ。


 沙姫が中学に入ったころから、だんだん家族のもとを離れていくのは気づいていた。なにか、かくしごとをしていると。


 二年になってすぐ、それが激しくなった。


 有頂天になって舞いあがってる日があるかと思えば、急激に沈みこんでる日もあった。

 妹のことが、まったくわからなくなった。


「お兄ちゃん、好きな人、おるん?」


 そう聞いてきたのは、一学期の終わりごろだったろうか。


「へ? なんや。いきなり」

「うーん、聞いてみただけ」


 こんなふうに言われれば、ぴんと来ないわけがない。


「なんや。だれか好きになったんか」

「しいッ。パパにはナイショやで。ぜったい、言わんといてや」

「うん。まあ」

「お兄ちゃんの好きな人が、ほかの人、好きになったら、どないする?」

「そりゃ、イヤやな。でも、しゃあないやろ。ずっと同じ人、好きでおれへん」


 沙姫は、ふんぜんとした。


「うちは、ずっと好きやもん」

「そんなん言うても、今のうちだけやって。二、三年たてば、気持ちも変わるわ」


 すると、急に、だまりこんだ。


「………」

「どないしたんや。沙姫、ふられたんか?」


 どこのどいつが、うちの可愛い妹をふりよったんや?


 だが、沙姫は首をふった。

 沙姫の悩みは、もっと深遠なものだったのだ。


「今が一番、幸せ。そんな気がする」


 沙姫はそう言った。

 沙姫が校舎から飛びおりたのは、そのしばらくあとだった。


(沙姫は幸せだと言っていた。今が一番、幸せだと。なら、なんで自分から死をえらんだんや?)


 イジメの事実を知って、本当はつらかったのだと思った。


 だが遺された日記を読めば、一目瞭然だ。

 沙姫が死んだ本当の理由が。

 沙姫を殺したのは、真の意味では九重蘭だ。なのに彼は、そのことにすら気づいていない。


 ゆるせない。やっぱり、おまえだけは、ゆるせない。

 もうこれで終わりにしよう。


 沙姫が死んで十二年。

 親父も死ぬ。おれも、沙姫のことで思い悩むのに疲れた。

 過去を見続けて立ち止まるより、今を生きようと決心して、蘭に会ってはみたものの……。


 ぼんやり考えていた駿矢は、ふと我に返った。

 玄関の引き戸が、わずかにあいている。しめなおそうとして、思いがけない人が通りを歩いていくのを見た。

 うなだれて、まるめた背中。

 沙姫の事件があってから、この人は、いつも、こんな姿をしている。

 彼女とは、親にもナイショで、しばしば会う。


「井上さん」


 呼びとめると、肩をふるわせて、彼女はふりかえった。


「……桜井さん」

「今時分、どないしはったんですか? このへんを歩いてるなんて、めずらしいですな」


 彼女は学校で事件を起こした。

 みえっぱりの親に勘当されたのだ。高校卒業とともに家を出ていった。今は東福寺付近で一人暮らしをしている。

 だから、実家のあるこのあたりは、彼女の生活圏からは完全に外れている。


「母が倒れたと聞いたものですから。でも、父が許してくれませんでした。今さら入れてくれるはずがないんです」

「そうですか。うちも父のぐあいが悪くてね。今、家族は留守なんです。あがっていかはりますか? 仏壇、おがみたいと言ってたでしょう」

「いいんですか?」

「いいですよ。ほかの人なら入れへんけど、あなたが強制されて、しかたなくやったことは、沙姫もわかってたはずやから」


 沙姫の事件の加害者で、自分から謝罪してきたのは井上若菜だけだ。葬儀のときにも、泣きはらした目をして、通りのかどから手をあわせているのを見た。


 彼女がしてしまったことは許せるものではない。だが、だからと言って、彼女の罪ではない。

 君が悪いわけじゃないから、そんなに自分を責めないで、自由に生きてくださいと言ったこともあった。

 自殺しかねないほど落ちこむ彼女をはげますために、何度も会った。


 でも、本当に、そうなんだろうか。自分は本当に、彼女に罪はないと思っているのだろうか。

 彼女を沙姫の呪縛から解くために会うのだろうか?


 あるいは、その反対なのではないかと思わないでもない。

 彼女は親友だった妹をうらぎった。十四の少女にとって、ことばにするのも忌まわしい、残酷なことをした。

 たとえ自分の意思ではなかったとしてもだ。

 その事実は消えない。


 それで、彼女に会うのかもしれない。

 彼女がいつも捨てられた子猫みたいにビクビクふるえて、うなだれて歩く姿を見るために。

 彼女が哀れで、みじめで、今も沙姫を死なせた罪を一身に背負ってることを確認するために。


 もういいんですよと口先では言いながら、内心は、せせら笑っているのかもしれない。

 おれたちの沙姫を殺しておいて、自分だけ、のうのうと生きてられると思うなよと……。


(たぶん、九重蘭も、そうだったなら、おれは、あいつを許せたんや)


 だが、蘭は違っていた。

 沙姫のこと、忘れてはいない。

 あのころ、純粋に沙姫が好きで、その死を悲しんだの本当だったのだろう。

 でも、彼はもう前を向いている。

 うまく自分のなかの悲しみと折りあえる大人になって、新しい自分を築いていた。


 沙姫は過去に置き去りだ。

 それが、ゆるせない。


 電話がかかってきたのは、そのときだ。ケータイではなく、家の固定電話だ。

「ちょっと待ってや」

 井上を玄関に待たせ、急いで出ると、相手は蘭だった。


「桜井駿矢さんですか?」

「ええ」

「九重です。もう一度だけ、会っていただけますか?」

「ああ、いいよ。今日は、こっちも、すっきりせんかったからね」

「では明日、正午でいいですか? 今度は、こちらがランチをごちそうします」

「明日は仕事だから、近所がいいですね」


 駿矢は近くの洋食店の名を告げ、電話を切った。

 向こうが、その気なら、ちょうどいい。

 そうだ。このままでは、すっきりしない。

 今度こそ、終わりにするのだ。


 それにしても——

 あのこと、まだ警察は気づいてないようだ。

 このままにしておくのが賢明なのかもしれない。

 復讐の味は、思ったより美味ではないが……。

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