水無月*桔梗と椿のおうち(真面目風)

これはまだ桔梗と椿が小さかった頃のお話。


桜の世界に、雨は無い

暦は6月を指していても咲いている花は桜、艶やかな薄紅色が視界を染める

いつも春の陽気、朗らかな春の風、甘酸っぱい桜の香りが生暖かい風にのって運ばれてくる

小さな肩に降り積もるのはハート形をしたピンク色の花弁ばかりで、6月だというのに雨粒で濡れることはない


夕日が橙色に光って水平線へ身を落として行く

空は青から紫、藍へと変わり徐々に闇へと主導権奪われていくようである


桔梗は呪符を握りしめて

妖界から訪ねてきたばかりの藤臣へしがみついた


「先生。椿が、椿が・・・」


もうずいぶんと泣きはらした真っ赤な目で、必死に藤臣の着物の端を握って引っ張った


「どうした?どこか痛い?」


違う。と桔梗は首を振った

焦りばかりが募って、頭が混乱し、言葉がついて出ない

ようやく伝えられたのは一言だけ


「椿が、帰って来ないの。」


もう小学校はとっくの昔に終わっているはずだ

いつもなら陽が暮れる前には帰ってきて遊び相手をしてくれたり、体調が悪い時には冷たいタオルを額にあてて傍にいてくれるのに

今日はもう夜が近いのに椿の「ただいま」が聞こえない


「し、式が、椿は帰らないって言ってるって。先生・・・椿が、もう帰って来ないって。」


親にもすがったのだ。でも、「あんなの放っておきなさい」って全く興味を持ってくれなかった

もう頼れる人は先生しかいない


「椿に式神を飛ばしたの?」

「うん。」

「じゃあ、どこにいるか、だいたいわかる?」

「うん。」


桔梗は椿に持たせている呪符を頼りに式神を飛ばし、その式神たちが今、彼女に何らかの危機が迫っていると伝えてくれていた


「じゃあ椿をふたりで迎えに行こうか。」

「でも、お外だよ。」


桜の世界の外にはほとんど出たことがない

決まって体調が悪くなるし、外は冷たくて寂しい

あまりいい思い出がないから、できれば春の日和のなかでぽかぽかと過ごしていたい

でも、椿は私の大切な人だから先生と一緒なら頑張れる気がする


「ずっとそばにいてよ?人がいっぱいで、迷子になるの怖いから。」

「大丈夫、早く行って早く帰ってこよう。治療も後でちゃんとするよ。」

「うん。わかった。」


先生に手をひかれて、鳥居の外に出る

春の陽気とは一転、どんより重たい雲が広がる暗い空から大粒の雨がしとしとと降って桔梗の着物を濡らしていった


こっち、つぎはあっち

と、式神の気を頼りに先生と雨の中の道を歩く


道路にたまった水が跳ねて、裾を汚し、着物は冷たくさらに水気を吸って重くなる

それでも先生の背中は力強くて、くじけそうになる桔梗の心を奮い立たせた


「あ、ここ。」

桔梗が足を止めたのは、小さなさびれた公園だった

雨を避けられる吹きさらしの小屋の中から、強い式神の気を感じた

中を覗くとベンチで頭を抱えて震えている椿と彼女の周りを心配そうに舞う式神がひらひらと踊るように彼女の頭上を回っている


「椿っ‼」

桔梗は椿に駆け寄った

雨のせいか、それとも心の表れか、すっかり冷え切った体で椿の肩を抱く


「帰ろう。」

優しく、声をかけた

けれど、


「帰らない!」

椿は逆上して頭を振る

タッと走ってその場を去ろうとするのを先生が慌てて止めた


「桔梗もわたしも、椿のことをものすごく心配して迎えにきたんだ。こんな雨の中で寒かっただろうに。冷えたでしょう?一緒に生姜湯でも飲もうか。ね。」

ぽんと椿の背中を叩いた藤臣の手を椿は乱暴に振り払って叫ぶ


「もっと、もっと寒くなったら、私、きっと死んじゃう。そしたら、桔梗の身体だって、力だって、完全に戻るかもしれないよ。だって、桔梗があそこから出られないの、私のせいだもん。私がいるからだもん。だから、私、もう、ここでね、消えるの。そしたらみんな嬉しいでしょ。」


「馬鹿者‼」


雷鳴のごとく響き渡ったのは先生の声だった

日ごろ温厚な先生が肩をわなわなと震わせて、怒り、そして𠮟りつける


「椿がいなくなったら悲しいよ。みんな。じゃないと迎えになんて来てない。桔梗がどんなに必死になってわたしにしがみついてきたか、椿がいることがどれだけ桔梗の支えになってるか、全然わかってない。」


桔梗も椿も初めて見る先生の毒蛇のような怒気に気圧され、時が止まったかと思うほど身じろぎひとつせず体を強張らせた


ふう、とひとつ大きく息を吐いて

「椿さん、帰る気になりましたか。まだなりませんか。」

先生は一転していつもの声色に戻った

「え・・・と。」


椿はばつの悪そうな顔で下を向くばかり

先生は椿に視線を合わせるために膝をついてから、諭すようにゆっくりと話した


「あのね、桔梗の体調は、椿がいるとかいないとか、関係ないの。椿がもし今、死んでいなくなってしまったって桔梗の体調は良くならないよ。むしろ椿がいなくなって悲しくなって、もっと悪くなってしまうかもしれない。」

「それほんと?」

「うん。ほんと。先生が言うんだから、間違いないよ。」


先生は椿の頭に手をぽんとのせてゆっくり撫でる


「桔梗も帰ってきて欲しいって、ね?」

「うん。」

桔梗は大きく首を縦に振った


「さぁ、帰りましょう。」

椿は先生が差し出した手をおずおずと無言で握った

しかし、心は未だ晴れないのだろうか、その横顔は鬱々としていて暗い

雨で濡れて萎れてしまった花のようにしょんぼりと肩を落とし、踏み出す足も重たいようだ

仕方なく家に向かってはいるが全身からは「帰りたくない」とそう震えているのが伝わってくる


椿がどうしてそんなにうちを嫌がるのか

帰りたくないと言ったのか

私が消えていなくなってしまえば喜ぶなんて言葉が出るのか

まだ理解していなくて

私は知らず知らずのうちに大切な人を傷つけてしまっていたのかと気づいたときには

椿の心にはもうおびただしいほどのヒビが入って今にも割れてしまいそうだった


椿が新しい幸せを見つけて、前へ進んでいくのはもう少し先のお話


それでも心の傷は癒せない

どんな術も、どんな治療も、椿の心をもとに戻すことはできない

けれど今にも割れそうな心を包みこんでくれる優しい光を手に入れた


椿が私に、今日のデートの話をしてくれるの

嬉しそうに、

それで、また「帰りたくない」って言われそうだな




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