第七章 任命式

第29話 翌日と屋上

 月曜日の放課後。生徒会室に顔を出すと、岸本きしもと先輩が一人で書類とにらめっこをしていた。


「こんにちは」

「やぁ」


 こちらに目をやり、岸本先輩が俺に片手をげてみせる。しかし、その視線はすぐに、書類へと戻された。


 椅子いすに腰を下ろしながら、横目で様子をうかがう。


 今日も今の所、仕事はなさそうだ。


「昨日の夕方、静香しずかから電話があった」

「――ッ」


 あまりにタイムリーな話題に、思わず過剰反応をしてしまう。


「なんでも、静香を振った身の程知らずな奴がいるらしい」

「へー。そうなんですか……」


 それはまた、大馬鹿者もいたものだ。


「どうやら、相手はウチの生徒のようだ」

「へー」

「しかも、静香と休日に出掛けるくらいには、親密な」

「へー……」


 噂によると、この春まで静香さんには、親しくしている特定の男子はいなかったらしい。この春までは……。


「理由を教えてもらえないか?」


 書類から顔を上げ、岸本先輩が俺の方を向く。その顔は、真剣そのものだった。


「なんの、ですか?」

「静香を振った理由だ。私にはどうしても分からないんだ。君がなぜ静香を振ったのかが」

「……」


 分からない。そりゃ、そうだろう。静香さんに落ち度はない。落ち度があるとしたら、むしろ俺の方……。


「不確定な気持ちのまま答えるのは、相手にとっても失礼だと思ったんです」

「それは、どういう……?」


 岸本先輩の顔に、困惑と疑問が浮かぶ。


「以前、岸本先輩、俺に聞きましたよね? 気になる女性はいないのかって」

「あぁ……」

「あの時、俺の頭には、二人の女性の顔が浮かんでいました」


 一人は静香さん。もう一人は――


「一人にしぼれなかったからこたえなかったと?」

「えぇ。まぁ、そんなところです」


 それでも、静香さんのような人に告白されたら、普通は付き合うのかもしれない。けど、俺にはそんな真似、到底できなかった。


「君はまぁ、真面目まじめなのか不真面目なのか」


 嘆息たんそく。そして、微苦笑。


 予想に反し、岸本先輩の表情に好意的な要素があるのに、少し驚く。


「すみません」


 言って、頭を下げる。


 とはいえ、こればかりは、自分でコントロール出来るものでもないので、今すぐどうこう出来る話ではない。


「そう言えば、静香は君とどんな顔をして会えば悩んでる様子だった」

「え?」


 今の驚きの言葉は、岸本先輩の言った内容に対するものではなく、なぜこのタイミングでその話をするのか分からなかったために出た「え?」だった。


「そして今、静香は屋上にいる。もちろん、一人で」

「迎えに行ってこいという事ですか?」

「さぁ」


 とぼけた表情をその顔に浮かべると、岸本先輩はもう話は終わったと言わんばかりに、視線を再び書類へと落とした。


 ……はぁー。

 内心で溜息ためいきき、俺は立ち上がる。


「行ってきます」

「今日は急ぎの仕事もない。ゆっくりしてくるといい」


 そんな岸本先輩の言葉に送られ、俺は一人、生徒会室を後にした。




 きしんだ音と共に、前方の景色が開ける。

 目の前に広がるのは、コンクリートの床と転落防止用のフェンス、そしてどこまでも広がる青空……。


 お目当ての人は、あの日と同じように出入り口からは死角になる建物脇のベンチに座っていた。目を閉じ、原稿が風でははためき飛びそうなのもあの日と同じだ。

 その光景に、自然と笑みが浮かぶ。


 なんだか、無性に微笑ほほえましかった。


「静香さん」


 名前を呼び、彼女の前に立つ。


 起きる気配はない。


「静香さん」


 もう一度、今度はさっきより少し大きめの声で呼ぶ。


 やはり、起きない。


 さて、どうしたものか。この前、ああいった事があった手前、手は出しづらい。しかし、呼び掛けだけで起こすのは難しそうだ。


 かくなる上は――


 屋上のフェンスに体を預け、静香さんの寝顔を見つめる。


 ――私は、こう君の事が好きです。昔の、あの頃の気持ちとは全く別に、今のあなたの事が。


 頭の中に、昨日、静香さんから言われた言葉が再生される。


 大馬鹿者だな、俺は。こんな美人で、頭が良くて、性格までもがいい人から告白され、それを保留にするなんて。


 岡崎おかざき由愛ゆめ。俺のクラスメイト。中学からの付き合いで、一緒にいると落ち着く。顔立ちは可愛らしく、よく気のくお人よし。趣味や趣向は俺と合う。


 姫城ひめしろ静香。俺の先輩で、従姉いとこ。本当の意味で知り合いになったのは高校に入ってからだが、一緒にいると安らぐ。顔立ちは整っており、周りへの気配りの出来る年上の女性。趣味や趣向は……どうだろう? まだよく分からないが、合わなくはないと思う。


 どちらも、俺にはもったいないくらい素敵な女性だ。なのに、俺は……。


「ん……」


 静香さんが身じろき、目を覚ます。


「あれ? 私……」

「目、覚めました?」

「孝、君……?」


 俺の存在を認めた静香さんの顔が、一瞬で真っ赤に染まる。


「いつから?」

「ついさっきです」

「そう……」


 言いながら、たたずまいを整える静香さん。


「そ、それより、どうしてここに?」

「静香さんを迎えに来ました。岸本先輩に頼まれたもので」


 正確には頼まれたわけではないが、似たようなものだろう。


由佳里ゆかりのやつ、余計な事を……」


 横を向き、俺に聞こえないようつぶやく静香さんだったが、その声は、残念ながらはっきり俺の耳へ届いていた。


「静香さんは……練習ですか?」


 手元の原稿に目を向けつつたずねる。


「はい。任命式、近いので」

「あぁ……。週末、でしたっけ」


 別に何かをするわけではないが、自分がメインの式なだけに、少なからず緊張する。


「うふふ」


 静香さんが俺の顔を見て笑う。


「どうかしました?」

「すみません。今、孝君の顔が、まるで苦い物でも飲んだようになっていたので」

「あんま得意じゃないんですよね、注目浴びるのとか」


 それに、自分自身、注目を浴びるタイプではないと思っている。演劇なら裏方、ダンスならバックダンサーぐらいが俺にはちょうどいい。


「そう、なんですか?」

「意外ですか?」

「いえ、出来れば、次は無理でも、いつかは孝君に生徒会長をやってもらえたらな、と思っていたので……」

「あー……」


 やっぱり、そういうつもりでしたか。


「そろそろ俺、行きますね」


 話を逸らす目的もね、そう申し出る。


「あ、私も戻ります」

「じゃあ、一緒に戻りましょうか?」

「はい」


 うなずき、ベンチから立ち上がる静香さん。


「なんか、不思議です」

「何がです?」

「孝君とこうして顔を合わすまで、どういう顔で会ったらいいんだろうって、少し悩んでたんです、私。なのに、いつの間にか、普通に会話していて」

「俺もです」

「え?」

「俺も静香さんと同じように思ってました。だから、こうして普通に話せて嬉しいです」

「――ッ」


 突然、静香さんが俺から顔をらす。


「い、行きましょう」


 そして、こちらを見ないまま、扉のある方に向かって行ってしまう。


「な、なんだ?」


 戸惑う俺に、扉の前で立ち止まった静香さんが、振り返り、言う。


「私もうれしかったです、孝君と話せて」


 あぁ、なるほど。さっきの静香さんの反応、単に照れくさかっただけか。実際に自分の身に起きてみないと分かんないもんだな、こういう事は。

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