(3)
――真琴さんを狂わせてるのは……僕か……?
真琴をおかしくしているのは先輩だ、新村と言われた時、岳はそう自問した。
否という答えはすぐに返ってきて、その時、彼は自らの口元を大きく歪めていた。
当時、中学三年生だった真琴を凌辱しようとした男が、彼女を狂わせた原因ではないか。
――そうだよ。真琴さんを狂わせたのは、そいつじゃないか。
彼女の心に深い傷を負わせて、殺人衝動と不可思議な現象を生み出すきっかけとなった男。
そして、その男は罪を償う事などなく、今もどこかでのうのうと生きている。
彼女はあんなにも苦しい思いをしているというのに、それはあんまりではないか。
岳でさえ、その男の事を許せないと思うのだから、彼女も当然、自分以上に許せない気持ちがあるだろう、とそう思っていた。
しかし、彼女を襲った犯人を殺すと言い放った彼の言葉を聞いた彼女は、とても悲しそうな表情をしていた。
――なのに、なんでそんな悲しい顔するの……?
暗い眼差しを彼に向けながら、彼女は一言呟いた。
「バカじゃないの?」
それには少しだけ怒気も含まれていたが、彼の言葉に対する呆れが大半を占めていた。
いつもの彼であったなら、彼女の冷たい発言に考えを改めていたかもしれず、彼女もそれを期待していた。
しかし、今の彼は寝不足のせいもあってか苛ついていて、いつもなら気にしない言葉にも敏感に反応してしまう。
その結果、自らの語気を強めていくのだった。
「バカって……そりゃあ、僕は真琴さんより勉強なんてできない人間だけどさ。それでも一生懸命考えて、真琴さんを襲ったヤツを殺そうって決心したんだよ! 真琴さんだって、そいつのことは許せないでしょ!? だったら、僕が殺してやるよ!!」
「そんなこと頼んでもないのにやめてよ。ツバキくんの言うように、私があの男のことを許せないのは、間違ってない。どんなひどい目に遭って、目の前で死ぬ姿を晒されても、あの男のことを私は一生許せないよ。たとえ、ツバキくんが殺したところで、その気持ちは変わらないし、晴れるわけでもない。そんなの考えなくてもわかるでしょう?」
「わかんないよ! 真琴さんがどうしてほしいのか! 僕はどうしたらいいのか! もうなにもわかんないんだよ!」
熱くなって声を荒らげる岳と同様に、真琴も眉間にしわを寄せて怒っていた。
駄々をこねる子供を叱りつける母親のような雰囲気で、岳を罵倒する。
「一生懸命考えた結果が、私を襲った男を殺すことだもの。わからなくても当然。無い頭を一生懸命使って、私を助けようとしてくれてありがとう。でも、もうツバキくんはなにもしなくていいから」
「ああ!?」
反論もできないほど頭が回っておらず、聞こえてきた彼女の発言がただの怒りに変換されている事に、彼が気が付くのにも時間が掛かった。
少し落ち着いて冷静になってから、初めて彼女と口喧嘩をしている状況である事を認識するのと共に、完全に落ち着きを取り戻した。
――口喧嘩というよりは、一方的に正論を言われてただけか……でも、真琴さんも怒ってくれるくらい真剣なんだよな……
真剣なのは岳も同じで、だからこそ、彼女の一言が頭にきたのだ。
「頼むから、僕を殺してくれよ……真琴さん……」
もはや、その言葉しか頭に浮かんでこず、そのままの気持ちを口に出した。
彼にとって、彼女に殺される事が、彼女との関係の起源で、彼女との繋がりの全てだった。
パイプ椅子から立ち上がった彼女は、震えている彼の横へとゆっくりと移動する。
そして、身を屈めるようにして、彼の耳元へと顔を近づけた彼女は、衝撃的な一言を呟いてみせた。
「じゃあ、殺してあげようか?」
岳が思わず彼女の方を見ると、いつものように不敵な笑みを浮かべた彼女の姿がそこにあった。
もう岳の事を殺したくないと言っていた昨日とは真逆の発言に、彼が驚かないはずもなかった。
しかし、驚きよりも先に口から飛び出したのは、その希望にしがみ付くような言葉だった。
「殺してくれるの……?」
彼女がいつものように自分を殺してくれるのだ、と思った瞬間に喜びがこみ上げてくる。
同時に、あっさりとした彼女の言葉に、違和感も覚えていた。
それでも、彼女に殺される事に縋りつくしかない岳は、彼女のナイフで
彼の物欲しそうな態度と問いかけに、彼女は頷く。
「殺してあげる。でも、これで本当に最後だから」
最後という言葉の、本当の意味を理解しないまま、岳は、彼女に言われるがまま、椅子から立ち上がる。
彼女は、参考書の並んだ本棚の方へと彼を追い詰めていくと、その意味へと繋がる話を口にし出す。
「ツバキくん、言ってたでしょ? 私のこの能力は、単なるタイムリープなんだ、って。複雑な条件も、私自身が付け足してるだけの話で、融通の利く能力だったことは、新村さんとの件でわかったよ。あの時たくさんツバキくんを殺せたおかげで、コツもわかったし、今度は多分、一回目でうまくできると思うの」
「……真琴さん? また、能力でなにかしようとしてるの……?」
尋ねかける彼への回答を保留しながら、彼女はナイフを手に取った。
それからずっと彼女は黙ったまま、彼の事を見つめていた。
それは、彼に思考の時間を与えているようにもみえ、岳は、必死に彼女の言葉の中からその目的を探ろうとする。
――真琴さんは、新村さんの時みたいに、自分の能力を応用して何かしようとしてる……でも、なにを? ここには、僕と真琴さんしかいない。殺人の記憶を維持させる新しい誰かがいるわけでもないから……
新村の時と今の状況の違いは、新村がいない事だ。つまり、殺人のタイムリープ現象に、第三者が関与する事は無い。
二人の間でやれる事とすれば、岳と真琴のどちらか、または二人ともの記憶を保持させない事くらいのものだった。
記憶に関する応用で思い浮かぶのはそれくらいで、彼女の目的に繋がりそうな事として岳の中で挙がったのは、その中でも一つだけだ。
「真琴さん……もしかして、僕の記憶をどうにかするつもりなの?」
彼女は、答えない。
そして、その質問を受けてから、じっと彼の事を見つめていただけだった彼女は、動き出した。
そっと彼の顔から眼鏡を奪い取って、視界をぼやけさせた後、彼の腹にナイフを突き刺す。
「うっ……」
痛みで声を漏らすくらいに苦しみながら、岳は本棚にもたれ掛かったまま、床に腰を落としていく。
不鮮明な光景と共に、身を屈めて彼と同じ目線を保つ彼女の顔が、彼の視界に映っている。
ナイフは刺した瞬間に引き抜かれていて、彼女の右手には彼の血の付いたナイフがあった。
すると、突然、彼女は空いていた左手で、彼の目元を覆い隠した。
岳からは、完全に見えなくなった光景の中で、彼女は何かを躊躇っている。
彼の視界をゼロにしてまで見せたくなかったのは、彼女自身の表情だった。
頬を少しだけ赤らめて、何か恥ずかしそうな表情を浮かべている。
しかし、その表情をしたのも一瞬の事で、すぐさま表情を整えた彼女は、彼の視界を妨げていた左手を退けると、彼の顔に自らの顔を近づけた。
岳と真琴の、唇が触れ合った。
彼が今朝見た夢と同じように、現実の彼女とキスをしていた。
それは、一瞬の事だったが、彼にとっては永遠にも感じられるくらいに凝縮された時間の中で、真琴の唇が離れた瞬間に、岳はその唇に名残惜しさを覚える。
夢のような時間を味わった後、彼女はすぐに、ぼやけた世界に消えていく。
彼を見下ろしながら、彼女は彼に別れを告げた。
「バイバイ、ツバキくん。また、“夏”に会いましょう――――?」
「――――!?」
それは、彼を夢のような世界から現実へと引き戻すには十分すぎる言葉だった。
――夏って……まさか――――!?
彼女の言う「夏」という単語が意味する事に、彼が気が付いた時にはもう遅かった。
「待っ――――――――」
彼の言葉を遮るように、彼女は、血の付いたナイフで彼の首を切り裂いた。
血が勢いよく噴き出す最中でも、岳は口をパクパクさせながら、何か言葉を発しようとしていた。
しかし、それがちゃんとした言葉として、彼女の元へと届く事は無かった。
床に広がっていく真っ赤な血液に向かって、返り血を真正面で浴びた彼女から、彼の血が滴り落ちていく。
そして、同時に、彼女の目から零れ落ちた透明で綺麗な雫も、床の血液と交じり合っていた。
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