第58話 深く深く

「ラヴィボンドさん、また今度」


「うん、またおいで。サイラス君のことよろしくお願いします」


「お任せください」


 風の賢者の魔術で、僕は一瞬のうちに教会へと辿り着いた。風は若葉の香りをの残す。月の光に照らされた広間は静かで寂しかった。ラヴィボンドさんが居てくれたときはキラキラ輝いていたというのに。


「サイラス?」


「…………」


 久しぶりにかけられたその声に、僕は振り向くことができなかった。遅い時間になってしまったということもあるが、何よりも気まずい関係となってしまった今の状況で、どんな反応が正しいのか分からなくなていた。


「どこに行っていたの? 心配したのよ」


「遅くなってしまい、申し訳ありません」


「いえ、こちらこそご迷惑をおかけしました」


 風の賢者とは笑顔で話すその様子に、僕の心はもやもやと曇る。いつも僕に見せる顔は、彼の前では出さないものらしい。


「何をしていたの?」


「…………」


「どうして何も言ってくれないの?」


「…………」


 その言葉に返事をしたくない。その理由なんて、僕が知りたいほどだ。


「どうして……。どうしてお母さんを困らせるの」


「…………」


「サイラスのために言っているのに、どうして分からないの!」


 お母さんの怒鳴り声を聞くのは、あの喧嘩をした日以来だった。無言になるか喧嘩をするか。その二択しか、僕らの間には存在しない。


「そんなの……僕のためじゃない……」


 ぽろっと零した僕の本音に、お母さんの眉は吊り上がった。その表情を見て、僕も黙っていることはできなかった。


「何も知らないくせに。口を出さないでよ」


 何かに怯えるような、絶望するような。あなたまでもそんな目で僕を見るのか。それは僕のことを死神だとしか思わない、軽蔑する人たちの視線によく似ていた。


 昔はずっとそばにいてくれるものだと思っていた。ずっとそばで、自分と一緒に傷ついてくれる人だと思っていた。でも所詮それは幻想でしかなくて、僕が思い描いていたわがままな未来でしかなかった。


 僕は彼女から視線をそらした。彼女に取って僕は邪魔な存在でしかない。僕さえいなければ、彼女はもっと普通の日常を過ごしていたはず。


「何も知らないだなんて……親に向かって、なんてことを言うの!」


「まあ。お母様、落ち着いて」


 その様子を見ても、もう何とも思わなかった。ただ心から、何か大切なものが消えてしまったような気がした。


「……帰る」


「待ちなさい!」


 僕は二人を振り返ることなく教会を出た。これ以上彼女と向き合いたくなかった。


 僕たちがどんな会話をしていても、スミは幸せそうに眠っていた。その重さの中に、僕の幸せというものが詰まっているような気がする。僕はその幸せを零さないように、大事に抱えて家までの道を急いだ。


 道を照らす月は空高く輝いて、強い風が雲を押し流していた。

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