第57話 赤の原因

 コンコン


「失礼します。お時間よろしいでしょうか」


 扉を開けて入って来たのは、あの日僕たちを助けてくれた青年だった。


「この度は、私の対応が遅れたことで怪我を負わせてしまい、誠に申し訳ありませんでした」


 フードを脱いで礼を正した風の賢者は、ベッドのそばに立ってラヴィボンドさんに謝罪した。風の賢者の顔を見たのはこれが初めてだった。今まで一度も日の光を浴びたことがないかのような白い肌。深い緑色の髪は短く、病弱そうな肌の色に反して活発そうな印象を受けた。長いまつ毛の間に見開かれた瞳は金に輝き、それは何でも見通しているかのようだった。


「いえ。こちらこそ、助けていただきありがとうございます」


 風の賢者の申し訳なさそうな表情に、ラヴィボンドさんは笑って答えた。その表情にほっとしたのか、風の賢者もその表情を和らげる。


「あの日のことについて説明をしたいのですが……」


 言葉を濁した風の賢者が、視線をラヴィボンドさんからこちらに移動させた。どうやら僕は二人の会話の邪魔になるらしい。今日はもう十分過ぎるほどラヴィボンドさんと話したから、僕は素直に帰ろうと思って立ち上がった。


「私は彼がいても構いません。彼も当事者です。彼が聞きたいのであれば、この場で一緒に聞くことはできませんか?」


「……そうですね。特に問題はありませんが、どうされますか?」


「…………」


 それは予想外の提案だった。既に帰るつもりだった僕は、どうするかと聞かれてもすぐに返事はできなかった。


「サイラス君はあの日何があったのか知りたいかい? それがどんなものかは、私もこれから聞くんだけどね」


 あの日何があったのか。あの黒い塊は何だったのか。目の前の赤い景色とその場で何もできない自分のことばかり考えていたから、あの出来事の原因までは考えたことがなかった。


「……知りたいです」


 この機会を逃したくはなかった。


「大元の原因は、君たちが訪れていた部屋の隣。そこに住んでいた人が亡くなったことです」


 人が亡くなっていた。てっきり魔術の暴走が原因だと思っていたから、そんな言葉を聞くだなんて思ってもいなかった。


「死因は衰弱死。研究に夢中になるあまり、彼は食事も睡眠もとっていませんでした」


「それがどうして、あの黒い塊に繋がるのでしょうか?」


「あの黒い塊はエスカトロと呼ばれます。生から死へ移ろうことに失敗した魂が、死という概念を無理やり引き起こそうとして生じるもの。これは大昔から賢者の間で語り継がれている逸話のようなものであって、現実的に言えば、死にたくないという意思が暴走させた魔力の塊でしょうね」


「つまり私たちがあの場に行ったタイミングで、隣の部屋の人物がちょうど亡くなったということでしょうか?」


「そういうことになります」


 人が亡くなることで生じた塊。あんな形をとるほどに、その人物は死にたくなかったのだろうか。


「魔力の塊と言うには随分と大きいのですね」


「器が亡くなったので、魔力の取る形は自由ですから。暴走してしまった後は、死者の意思など関係なく暴れます。より同調しやすいものを取り込むために、自然と適切な形に変形するのです」


「同調しやすいものを取り込む?」


「はい。エスカトロが求めるのは魔力です。あなたの右腕のように、魔力を持つ生き物を飲み込むことで、その魔力を自らのものとします。そして思念の影響か、負の感情を持った生き物の魔力をより好むようで……」


「恐怖心を煽るために、あの恐ろしい姿をしていると?」


「そうなりますね。何しろエスカトロが発生することは稀でして、その姿も毎回異なるようですから」


「それじゃあ……僕が怖がらなければ襲われなかった、ということでしょうか?」


 目の前で交わされる会話に、僕は一つだけ質問した。もしそうであったのならば、僕が弱かったことがあの事態を悪化させたことになるのではないだろうか。


「たとえ負の感情を持っていなかったとしても、近くの魔力に反応して取り込もうとするはずです。それに向こうは怖がらせる目的であの姿をしていたのですから、あなたが怖がったことには何も問題がありません」


 その言葉を聞いて僕は少しほっとしていた。僕は今回の出来事が自分のせいではないと、誰かに言って欲しかったみたいだった。ただその事実は、僕が自分のせいだと思っているからこそ出てくる感情で、それを理解してしまった今、自分のことがより一層嫌になりそうだった。


「問題があるとすれば、研究者を監督できていなかった賢者の方だ、ということですか?」


「はい。今回のことが防げなかったのは私に責任があります。二度とこのような事態を引き起こさないように努力いたします」


「それなら安心ですね。私たちはあなた方賢者を尊敬し、信頼しております。ですが無茶はしすぎないでくださいね。私みたいに周りに迷惑をかけることになりそうなので」


 ラヴィボンドさんは笑って答えた。どうやら僕の気持ちは、ほんの少しかもしれないけどラヴィボンドさんに届いているようだった。


「ご忠告痛み入ります。……それで、話は変わるのですが」


「はい、何でしょう?」


「もう遅い時間なので、この子を家まで送らせていただこうと」


 その言葉を聞いて、僕とラヴィボンドさんはほぼ同時に部屋に備え付けられていた時計に目を向けた。それが示していたのはもう随分と遅い時刻。いつもならとっくに寝る準備を終えている時間だった。


「申し訳ありません。つい話し込んでしまいました」


「いえ、気づかなかった僕が悪いんです」


 お母さんに嫌われているからといって、この時間はさすがに遅すぎた。


「スミ、帰るよ」


 気持ちよさげに眠っているスミは、いくら揺さぶっても起きそうになかった。


「大丈夫ですか?」


「はい……問題ないです」


 お腹も膨れて脱力した状態のスミは重くて、抱えているだけで腕が痺れそうだった。

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