第85話 もしもの世界
朝、目覚ましが鳴った。窓から光が差し込む。僕は寝ぼけたまま一階に降りた。
「おはよう」
台所ではお母さんが朝食の片付けをしていた。平日はお父さんは帰ってこない。仕事へ行くお母さんを玄関まで見送って、僕は一人で朝食をとった。
「おはよう!」
「おはよう」
「サイラスはいつも眠そうだな」
教室について早々、僕は大あくびをした。夜はちゃんと眠っているから、寝不足ではないはずなのに、なぜかいつも眠たくてたまらない。
「これじゃあ今日も怒られるぞ」
「怒られる前に起こしてよ」
このいつも交わす会話が、僕には心地よかった。
放課後になって、僕たちはいつものように学院の廊下を駆けていた。たまたま通りがかった廊下で、すれ違った一人の研究者。ぼさぼさの髪を後ろで一つに結んだその人と、僕は会ったことが無いはずだ。それなのに、なぜかその人が懐かしくて、駆けだしたい気分になった。
「ラヴィ……」
咄嗟に出た言葉の意味を、僕は知らない。
「どうしたの?」
「腕が……」
じっと固まった僕を、友達たちが心配そうに見つめていた。
「私のことを呼びましたか?」
その研究者は振り返って、僕の方をじっと見つめた。僕はこの人を知らない。知らないはずなのに、近くにいるだけで落ち着く。その腕があることにほっとした。
「何でもないです」
「そうですか」
その研究者はすぐにどこかへ行ってしまった。奇妙な感覚が残る。どこへも行ってほしくない。離れたくない。この自分の気持ちが分からなくて、一人になりたかった。一人になれる場所。それを知っているはずなのに、どうしても思い出せない。
「早く行こう!」
「ごめん、ちょっと行きたいところができた」
友達が引き留める言葉を無視して、僕は一人違う方向へ向かった。どこへ行けばいいのかは分からない。ただ一人になれば、状況が変わると思った。一人になれば。
僕は振り返った。さっきまでいた場所からはずいぶんと離れた。友達はいない。仄暗い廊下で僕は一人だ。それでも何かが足りなかった。何か。
「きゅっ?」
鳴き声が聞こえた。それも聞き覚えのある何かの。何かとは何だっただろうか。どうしても思い出せない。周りを見渡しても何もいない。僕は何を忘れているんだろうか。何を知っていたのだろうか。
わけが分からない。自分がどうかしてしまったようで、僕は一人廊下を進んだ。気のせいなのか、おかしくなってしまったのか。進んでいた廊下の先に、見慣れない人影が見えた。夜の闇に
誰かの悪戯だろうか。よく見れば、そこに映り込んでいたのは僕自身だった。明かりの少ない廊下では何もかもが黒く見えるらしい。僕の髪はシルバーで瞳は緑のはずだから。自分が死神だなんて、どうかしている。
「僕が……、死神?」
その言葉には、なぜかしっくりと馴染むような感覚があった。
「死神」
もう一度呟く。その言葉、窓に映るその姿。僕は見たこともない生き物の名前を呼んでいた。
「スミ」
「きゅう?」
それが合言葉であったかのように、僕は全てを思い出した。慣れ親しんだ僕の姿。僕を救い出してくれた恩人たち。もう会うことのできないお母さん。そしてずっとそばにいてくれた相棒。
次々と溢れ出す記憶に、涙が頬を伝った。
「どうして……」
どうして忘れていられたのだろうか。こんなにも大事な事実を。大切な繋がりを。
「戻らなきゃ……」
僕は廊下を走っていた。ここにいればまたラヴィボンドさんに会える。腕があってちょっと不健康そうだけど。笑顔のお母さんにも会える。
でも、僕が住む世界はここではない。もっと無邪気で残酷で、それでいて美しい世界だ。たとえ世界中のほとんどの人が僕のことを嫌っても、そこには確かに僕の居場所があった。世界が僕を嫌っているわけではなかった。
夢中で駆けた。元の世界に戻るために。あの声の主に会うために。
「ねえ、いないの? 僕の願いを叶えてくれたんだよね。申し訳ないんだけど、元の世界に戻してくれないかな?」
僕は自分の部屋で、そこにいるかもしれない何かに話しかけた。僕の願いを叶えてくれると言った何かに向かって。
「サイラス? どうかしたの?」
「何でもない」
願いを叶えてくれたそれは、返事をしてくれなかった。何か様子のおかしい僕を心配して、お母さんが声をかけてくれた。ここにお母さんがいてくれても、それは僕が生きてきた世界じゃない。
どうすればいいのか。感じるのを止めてはいけない。考えるのを止めてはいけない。あの人がするとすれば、次はやはりあの場所へ行くのだろう。僕にできることを、全て試してみるだけだ。
僕は鞄の中を漁った。しかし、そこにあるはずのものがなかった。ひっくり返しても見つからない。それもそうだ。この世界の僕は、彼らと出会うことが無く、それを受け取ることもなかったのだから。
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