第72話 抱えられないもの

 朝が来た。真っ暗だった部屋に光が入る。昨日とはまるで違う、新しい一日。ただその生まれ変わった世界も、外へ出れば元の通りだった。


 人が僕を避ける。笑っている。からかっている。いつも通りで変わらない学院の廊下。僕もその一部でしかないはずなのに、どこか世界が違って見えた。


 視界が歪む。音が籠る。頭は痺れて、自分の体なのにその感覚さえもおぼつかない。涙は出し切ったはず。体だってちゃんと休めた。なのに奇妙な音がずっと聞こえる。鈴のような優しい音が、僕の前を歩いている。


 カラン


 懐かしい音。懐かしい香り。ホッとするような空気に、まぶたがだんだん重くなる。誰かが目の前に立っている。先ほどとは違う、これまた優しい声。頬を包む手が冷たくて気持ちがよかった。


「目が覚めたか。まだ辛そうだな。しっかり寝ていろ」


 頭に乗せられたひんやりと冷たい手。それは僕が気を失う前と同じものだった。


「体力はつけないとね。何か食べれそう?」


 僕が寝ていたのはカフェのソファ。マスターさんとノーマンさん、そして彼に抱かれているスミが心配そうにこちらを見つめていた。


「ほら、口を開けて」


 頭の奥がズキズキと痛む。体が硬くて動かしたいのに、動かそうとすればだるくて仕方がない。口に運ばれたオレンジ色のゼリーをどうにか噛んで飲み込むけれど、何も味がしなかった。


「もう一度お休み」


 ポンポンと規則正しく刻まれるリズムに、僕はすぐ眠りに落ちた。


「お母さんが死んじゃった……」


 起きていられるくらいには体調が戻って、僕は少しずつ話した。


「お母さんひどく弱ってた……。僕のせいだ」


 向き合うことを嫌って、自分のいいようにしか過ごしてこなかったから。お母さんが死んでからようやくその事実に気づいてしまった。


「僕がお母さんを困らせたから。謝りたい……。謝りたいよ」


 流し続けた涙がまた溢れ出した。それは止まることがなくて、どうすればいいか分からなかった。胸が痛くて苦しくて、もう会うことができないお母さんはこれより苦しかったのかなと、そう考えるとまたつらくなった。


 ノーマンさんに抱えられる。彼は無言のまま、ただ背中を撫でてくれた。


「どこで間違えちゃったのかな。何がいけなかったのかな。僕、どうすればよかったのかな」


 誰かが返事をくれるわけではない。それでも尋ねずにはいられない。答えが出ないと分かっていても、その答えを知りたくてたまらない。


 それからは声にならない声を上げて、ノーマンさんの腕の中で泣きじゃくった。




「少し落ち着いたかな」


「……ごめんなさい」


 思いっきり声を上げたから、もう喉がカラカラだった。


「一つだけ聞かせてね。お父さんや他に連絡が取れる家族はいないのかな?」


「お父さんは連絡が取れないって。たぶんお仕事だと思う。他の人には……会ったことない」


 たった三人の家族。それ以上の繋がりもなく、僕たちは三人で孤立していた。お父さんは遠いところにいて、お母さんにはもう会えない。この家族でさえももうバラバラになって、今ではスミが寄り添ってくれるだけになった。


「お父さんが帰ってくるまで、ここにいようか。夜ご飯は何が食べたい?」


 カフェは僕のもう一つの居場所。マスターさんたちの提案に、僕は少しだけ甘えさせてもらうことにした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る