第52話 突然の出来事 ※残酷描写あり

 研究部門の廊下にしては幅広く、窓からは明るい光が差し込む。ぽかぽかと暖かな陽気の中、壁際に置かれていた植木鉢は大きな葉を茂らせていた。


「ここが私の研究室です」


 リアンさんの案内を受けて、僕とラヴィボンドさん、ノーマンさんとスミの三人と一匹が彼女の研究室に遊びに来ていた。ただし僕の目的は彼女が研究を続ける理由を尋ねることで、その理由に納得ができない場合には研究を止めるように注意するつもりだった。今までの僕では考えられないようなこの行動に、緊張して握りしめた手の汗が止まらなかった。


「さあ、どうぞ」


 彼女が扉を開けると、その先の光が廊下へと零れた。リアンさんの後にノーマンさん、ラヴィボンドさんと続く。僕も彼女の部屋へ足を踏み入れようとしたとき、すぐ隣の部屋の扉が目に入った。


 それはギーギーと軋みながらゆっくりと開いていく。耳障りの悪い音は僕の心をかき乱した。


「ぎゅー」


 僕の肩からトンと飛び降り、床に足をつけたスミが何かを威嚇した。スミの初めて聞く声に、僕の心臓は重く響き始めた。光に包まれた廊下に、それが姿を現した。


 真っ黒でドロドロとした塊。天井に触れそうなほど大きなそれは、ビチャリビチャリと音を立てながらその表面を溶け落とす。塊は巨体からにゅっと二つの腕のようなものを生やし、それで向きを変えてこちらを伺った。体が横一文字に裂けたかと思えば、ギザギザと尖った歯が並ぶ。


 音のない声が響く。ただの振動は全身の毛を逆立たせ、一瞬のうちに廊下の光を飲み込んだ。呼吸は浅く、汗が噴き出す。この場の全てが警告していた。


「どうしたの?」


 その瞬間、塊が僕めがけて跳ね飛んだ。ドロドロとした体を辺りに撒き散らしながら一直線に向かってくるそれは、ジャンプしたスミとぶつかって跳ね返った。


「————!」


 声が出なかった。息が苦しくて涙が溢れた。塊はそんな僕の方を見て、ニタニタと口を歪ませて笑っていた。


「くぅー……」


 スミの声を辿っても、そこにはドロドロの液体が見えるだけでどこにいるのか判断がつかない。苦しげなその声に、僕の心臓は張り裂けそうだった。


 塊はじっとこちらを見つめ、表面を落とした。二本の腕で重そうな体を引きずりにじり寄る。震える足では塊から逃げることもできず、体を支えることさえ危うかった。


「サイラス!」


 部屋から飛び出してきたラヴィボンドさんに抱えられ、僕はその場から離れた。視界に捉えていた塊は、さっきまで僕がいた場所を踏みつけて走った。


「大丈夫かい?」


 ラヴィボンドさんの服をギュッと掴むことしかできなかった。


「ゆっくり息をしよう。大丈夫。大丈夫」


 その圧倒的な姿に、僕の肺は押しつぶされるようだった。アリーさんの研究室の扉を巻き込んで、塊が去った跡には大きな木片が散らばった。


「サイラス君、息をゆっくり吸って」


 ゆっくり。ゆっくり息を吸わなければ。息を。僕は息を吸えているのか。


「大丈夫。ゆっくりでいいから」


 わけが分からなくなっていた。何が起きていて、自分がどんな状況にいるのか。何ができていて何をしなければならないか。自分が何かを考えることができているのかさえも怪しかった。


「二人とも無事か!」


「来るな!」


 ノーマンさんの目の前を、黒い塊が通り過ぎた。勢いの増した塊の姿を捉えることは難しく、壁や床に引いた糸状の液体が辺りを覆った。


「走れるかい?」


 僕を抱えるラヴィボンドさんの腕に力が入る。


「いいかい。私が合図したらノーマンさんのところへ走るんだ。全力でね」


 僕は自分の足で立った。ただ言われた通り、合図の後ノーマンさんのところへ走ることだけを考えた。


「走れ!」


 背中を支えてくれた手が離れる。心臓が胸を叩く。足が震えて体がぐらぐらする。


「こっちだよ! ほら、こっちにおいで!」


 ラヴィボンドさんの声が聞こえる。僕は走れているのだろうか。


 遠くで何かが弾けるような音がした。僕は視線を逸らせなかった。ただまっすぐノーマンさんを見ていた。


「くぅ……」


「スミ!」


 どこからか、弱々しい鳴き声が聞こえた。スミがいる。スミがけがをしている。


「サイラス!」


 気づいたときには遅かった。ノーマンさんから視線をそらした瞬間、ドロドロとした液体に足を取られた。足が重い。体が重い。液体がまとわりついた体は、もう身動きが取れなくなっていた。


「ダメだ! そっちに行くな!」


 塊が振り返ってこちらを向く。ラヴィボンドさんが叫ぶが、塊は止まらない。ラヴィボンドさんとノーマンさんが走っている。でもその速さでは、塊に追いつくこともできない。


 スミは体を張って僕を守ってくれた。ラヴィボンドさんは僕を守るために、塊の注意を惹きつけてくれた。ノーマンさんは捨て身で駆け付けようとしてくれている。みんな動いてくれていた。こんな状況で自分にできることを考えて、それを実践してみせた。


 黒い塊が目の前に迫った。大きな鋭い歯に噛まれてしまったら痛そうだ。いっそのこと丸呑みされてしまえばいいのかもしれない。底の見えない闇の中に、この身を投げ出してしまえばいいのかもしれない。


 塊の動きがひどくゆっくりに見えた。それなのに僕の足は動こうとせず、ただじっとその様子を見ていることしかできない。僕には、――。


「大丈夫」


 目の前に水の壁が現れた。温かさが体を包む。魔術を発動させたラヴィボンドさんの背中は大きかった。涙が溢れて息が詰まった。この人はどうしてこんなにも輝いているのだろうか。その姿に、僕は縋り付くことしかできない。


「くっ!」


 ラヴィボンドさんの表情が曇った。透き通っていたはずの水の壁が、ドロドロと黒くよどんでいく。


「きゅー!」


 壁が弾けた。澱んだ水が方々へ散り、大きく裂けた口が現れる。その中に、ラヴィボンドさんが伸ばしていた腕が飲み込まれた。


「──っ!」


「ラヴィ!」


 赤い飛沫が飛び散った。塊がニタリと微笑んだ。ラヴィボンドさんの光が失われていく。ノーマンさんの声。スミの叫び。滲む視界に、ラヴィボンドさんの苦しげな表情が映った。


「ごめんなさい。ごめんなさい……」


 嫌だ。苦しい。何で。どうして。


 赤色が消えない。空間が切り取られたかのように音が無くなった。


 僕は何もできない。何もできないから、こんなことになってしまった。


「やあ。ごめんね、遅くなって」


 突風が吹いた。木々の香りがこの空間に散らばっていたドロドロをすくい、光へと変えていく。さっきまで笑っていた塊の姿はなく、その場所には真っ黒なコートをまとった青年が立っていた。


「手当てが先だね」


 ラヴィボンドさんが膝をついた。力なく頭を垂れ、その右肩から先がなかった。


「サイラス、見なくていい」


 ノーマンさんの声が耳元で響く。僕の瞳が、その胸に隠された。


「見るものは選んでいい。苦しい時は見なくていいから。いいか、自分を守るんだ」


「その子のことは頼んだよ」


 背中を撫でる大きな手は、僕の呼吸を楽にした。それでも涙が止まることはなく、まぶたの裏に染み付いた赤色と、鼻を刺激する鉄の匂いが僕を取り囲んだ。


「ゆっくり息をして、落ち着こう。時間は十分にあるから」




 さっきの光景が消えることはなかった。それでもノーマンさんの腕の中で揺られて、呼吸は次第に落ち着いていった。


「もう大丈夫だ」


 その重みのある声に安心した。何度も何度も告げられた言葉。それがようやく頭で理解できるようになって涙が止まった。


「お待たせ」


 いつの間にかいなくなっていた黒フードの青年が戻ってきていた。


「彼らの命に別状はないよ。次は君たちの番だ」


 視界を青い光が覆う。

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