第29話 異なる瞳に映る世界
向かった先はとある廊下に並ぶ扉の一つ。509と書かれたプレートの前。振り返れば、ここまで僕が辿ってきた足跡が廊下に染みついて、ほんの少し立ち止まっていた足元にはすでに水たまりができていた。
ゆっくりと三回、扉を叩いた。僕の心は不思議と落ち着いていた。ゆっくりと息を吸って、中から返事が返ってくるのを待った。ガサゴソと、こちらに近づいてくる音が聞こえる。
「どちら様でしょうか?」
その懐かしい声に、体が再び震えだした。扉の陰から現れた顔はすぐに険しいものとなった。
「とりあえず中に入ろうか。今飲み物を用意するね」
「ありがとうございます……」
部屋の中は以前来た時と変わらない。部屋に入った僕の背中に、ラヴィボンドさんは優しく手を当てた。次の瞬間には服が熱を持って、一瞬のうちに乾いてしまった。
「やっぱりこの手の魔術は苦手かな」
彼は苦笑いをしながら僕の髪をすいた。乾いたばかりの服は温かく、僕の髪は小さな子供みたいにふわふわと湯気を出していた。
「鞄から道具を出しておいてくれるかい。後で乾かすから」
そう言って彼は台所へと姿を消した。僕はその言葉に従って鞄を開けた。ノートや筆記用具から滴る水で、乾いた鞄に新しい染みができる。そのまま取り出してしまうと、この部屋の床まで濡らしてしまう。濡れても大丈夫そうな場所も見当たらないし、結局僕は何もせずに鞄を閉じてしまった。
「おまたせ。お茶を飲んでゆっくりしよう?」
「……はい」
緑茶の香りが研究室に広がる。僕はラヴィボンドさんの後ろを歩いて、部屋の奥へと向かった。
「中を見てもいいかな? 椅子に座って緑茶を飲んでおくといい。熱いから気をつけてね」
彼は僕の鞄を指差して尋ねた。
「分かりました……」
鞄を受け取った彼は、床に座って僕の道具を取り出した。一つ取り出すごとに魔術をかけて、乾いたものを床に並べていく。
僕に手伝えることは何もない。僕は彼の言葉に従って、カップを手にして椅子に座った。
「あっち!」
ちゃんと冷ましたつもりだったけど、お茶は思っていた以上に熱かった。
「大丈夫かい?」
少し心配そうな彼の言葉に、ホロリと頬を伝うものがあった。自覚すると余計に流れ出て止まらない。カップを握りしめて震えていた僕の手を、ラヴィボンドさんの手がやさしく包み込んだ。彼の腕が、僕を優しく抱きかかえる。床にぺたりと座り込んで、体がゆらゆらと揺れ動く。太陽の香り。日向ぼっこをしているように、暖かく明るい光の中で僕の涙は自然と収まった。
「これで大丈夫かな」
作業を再開していた彼は、最後に手に取った鞄を乾かし、道具を中へ戻していった。その柔らかい手つきから、僕の物を大切にしてくれていることが伝わってくる。それだけで、ああ良かったと心が安らぐ。彼の内から伝わる光は、その心の美しさからきているのだろう。
「お茶にしようか」
鼻をすすった僕に、彼はにこりと笑いかけた。
渡されたカップはすっかり冷めてしまっていた。
「僕もどうにかしようと頑張ったんですけど、どうにもならなくて……」
いつもよりちょっぴり苦いお茶は、心の軋みのようだった。
僕の魔力量が異常に多いこと。それなのに魔術を一つも使えないこと。他の生徒から嫌がらせを受けるけど、これ以上自分にできることが見つからないでいること。僕はこれまでのことを全て話した。
話しているうちにだんだんと惨めになった。どうしてこんなにも僕は何もできないのだろうか。こんな理由で泣いてはいけないと思ったのに、涙は容赦なく溢れだした。鼻が詰まって声が出なくなって、両目のちょうど間のところが痛くなって、僕は話を何度も中断した。
悲しくはない。ただ悔しかった。ラヴィボンドさんにしか頼ることができない自分が情けなかった。そんな僕の話を、彼は黙って聞いてくれた。
「サイラス君は魔術式が何の役割をしているか知っているかい?」
僕が話し終えると、ラヴィボンドさんは壁に掛けてあった大きな鏡を持ってきた。
「使う魔術の概念や仕組み、それを発動するための魔力の動きを表すことで、魔術の発動の補助をすること」
「完璧だね」
ラヴィボンドさんはペンを手に取り、足の上に乗せた鏡に何か書き込んだ。
「よし、できた!」
手に持って見せた鏡の中央には、黒いインクで魔術式が書かれていた。彼は僕を抱き寄せると、僕を膝の上に乗せるようにしてソファに座った。
「見ていて」
僕の目の前で魔術式が揺めき、飲み込まれるように鏡に沈んでいった。だんだんと黒く染まる鏡には、よく見るとどこかの廊下が映っているらしい。異様に暗い廊下の先に見える四角い光はほんのりと紫がかって、波打つように誘っていた。
見覚えのあるその廊下。鏡に映し出された光景は、その怪しげな光に導かれる。その切り取られた額縁を目にして、ようやくその場所が僕にも分かった。真っ黒な石造りの門に金色のインクで書かれた文字。それを見て初めて、この景色がどこなのか分かった。
「まだ時期には早いんだけどね」
見上げると彼は微笑むように笑った。鏡の中の景色が、光の中へと進む。そこに映し出された世界は、想像を遥かに超える美しさだった。
「藤雷。覚えているかな?」
稲妻が走る。真っ白な光の線が火花を散らす。くるくると円を描いたり、衝突して花火のように弾けたり、寄り添うような軌道を描いたり。気ままに動くその光は、あの時見たものとはまるで違う。確かな自由を手に入れたのだ。
藤灯虫の稲光が空気を割いて風を生む。複雑な気流の乱れが藤の花を揺らし、それを避けるようにまた閃光が
「本物の藤雷の光はこれよりもずっと強く、音は鼓膜が破れるほどにもなる。それは目の前にしなければ感じられないことだが、実際には不可能だ」
鏡の中の美しい光景を前に、ラヴィボンドさんの言葉が降りかかる。光が抑えられ、音のない世界からは脅威など感じられない。そこにあるのは眠りから目を覚ました光だけ。僕たちが見ているものは現実ではなく、ただのまやかしに過ぎなかった。
「直接見ることができないのなら、少し離れてみるといい。離れているからこそ、見えてくるものがある」
「でもそれは、本物なんかじゃない……」
「いや、本物だよ」
ラヴィボンドさんの瞳は自信に溢れているようだった。キラキラと光る湖面は波一つ立てることなく、僕の方をじっと見つめた。
「まだ、この先も見てもらいたいんだ」
光の溢れる室内に、真っ黒に切り取られた出口が見えた。
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