始まりは全てが新しく、出会いは新たな世界を語る
第18話 舞い散る羽と一人の男
学院の案内を受けて以来、僕は様々な場所に顔を出した。箱庭で昼食を食べて、放課後は秘密基地でしばらく過ごす。秘密基地は物で溢れて、それも日々場所が入れ替わっているようで飽きることが無い。彼が進めていた本棚に置かれていたのは、一度も読まれてなさそうな本からボロボロになった本まで様々で、目についた本を手に取ってはパラパラめくり、手に取ってはじっくり読んでと気の済むまで手を休めなかった。
多くの本を読み進めて、さすがの僕も読書に飽きるようになった。他にやろうと思えばできることはたくさんあったが、もうずっと会えていない夢の中の人たちのことが気になってきていた。あの心地よい空間に触れることが最初は現実の僕の苦しみとなっていたが、今の生活スタイルができてからはそうとも言えない。
もう一度会いに行ってもいいのだろうか。僕は鞄から鍵を出した。夢の中の出来事をより確固たるものとする標。色のない世界の中で、唯一光を持つもの。僕はもうそれを手放せる状態ではなかった。
「ラヴィボンドさん……」
碧く透き通った瞳はまだ怖い。しかしそれは光そのもので、僕を捉えたまま動かない。それがまた心地よく、無性に恋しくなってしまう。
僕は鍵を持って立ち上がった。扉に向かって一回、二回、三回叩く。今この扉の先はカフェに繋がっているはず。そこでは誰が待っているのだろうか。一度深く息を吸って、僕は扉を開いた。
カラン
懐かしい音。懐かしい香り。
「いらっしゃい、久しぶりだね」
マスターさんの明るい声に迎えられた。マスターさんの前には、初めてここに来た時に知り合った男の人が座っていた。
「オレンジジュースください」
確かノーマンさんと名乗っていたっけ。僕はその人にもほんのりと会釈して椅子に座った。ノーマンさんは何も言わずに、ただ黙って食事を続けた。
「どうぞ」
僕はオレンジジュースを受け取って口を付けた。
「そういえば……」
「どうしたの?」
僕はずっと気になっていたことをマスターさんに尋ねた。
「僕が初めてここへ来た時、ノーマンさんが勘違いをしていると分かっていてどうして何も言わなかったんですか?」
彼女はあらあらと笑った。
「そういえばそうだ。何で教えてくれなかったんだ? あんとき俺は本当に心配したんだぞ」
ノーマンさんは僕の質問に便乗した。彼はニヤニヤと笑って、マスターさんの反応を楽しんでいるようだった。そんな彼に対して、笑顔のマスターさんはさらりと言った。
「面白かったからね。このままどう転ぶのか見てみたくって」
「ふーん……」
悪びれる様子のないマスターさんに、ノーマンさんは追求するのをやめた。やっぱりここでは、ノーマンさんよりマスターさんの方が強いようだ。黙った彼に対して、マスターさんは話を続けた。彼女が話してくれたのは、僕の依頼が来た時のラヴィボンドさんの様子だった。
ある日、ラヴィが興奮した様子でカフェに来た。ベルを壊そうとしているのではないかと思うほどの勢いで開いた扉には、さすがに私も驚いた。
話を聞けば、ラヴィにボクからの依頼が届いたらしい。それをわざわざ報告しに来るほど、ラヴィにとっては嬉しいことだったのだろう。彼の話を止めるほど私は野暮ではないし、ラヴィも自分の頭を整理したいだけだろうから、その話に私はただ頷いていた。結局ラヴィは話に満足した様子でそのまま帰っていった。
依頼当日の朝、ラヴィはまたここに来た。自分の考えた計画が心配になったようだった。不思議なことに、ラヴィはそれほどの不安や緊張を感じていても自分の格好には目が向かないらしい。今のラヴィからは想像できないけど、彼は見た目にこだわらない人だった。
そのことを忠告すると、ラヴィは考えてもいなかったなんて言って
マスターさんは話の途中で笑いそうになるのを必死にこらえて、話を聞いていたノーマンさんも嬉しそうに顔をニヤつかせていた。ラヴィボンドさんが二人に愛されていることは、その様子からよく伝わった。
「楽しみにしてくれていたんですね」
こんな幸せそうな人たちの場所に自分がいることが嬉しくて、そして僕と会うことを楽しみにしてくれていたラヴィボンドさんの存在が頼もしくて、僕は初めて心から笑うことができた様な気がした。
「そうそう、子供みたいにはしゃいでね」
本当にここに居てもいいのだろうか。こんな幸せな感情の中に、僕も居ていいのだろうか。
カラン……
誰かが来たような気がした。入り口には誰もいない。ドアが開いた様子もベルが揺れた様子もない。ただの聞き間違いだろうか。
「どうした?」
「いえ……」
視線をノーマンさんへ戻すと、その後ろに誰かが立っていた。青みがかった紫色の髪を後ろにまとめ、金色の目が細められる。
「わっ!!」
ニッと笑ったその人は僕と目が合った次の瞬間、大声を出した。そしてその行動に驚く前に、僕の視界は暗闇に包まれた。
「誰が
珍しくマスターさんが怒っていた。その声はノーマンさんに負けないほど低く、全身が震えるようだった。
ゆっくりと目を開けると、部屋が随分と荒らされていた。あちこちに真っ黒な羽が散らばって、僕の目の前の椅子には一羽の大きな烏が止まっている。
「急に脅かすなって言っただろうが」
ノーマンさんの低い声が響く。機嫌が悪そうなその声の主の姿を、僕は見つけることができなかった。
「いやー、悪い。ついね、つい」
突然現れた男の人は笑って答えた。彼が応えた方向にいるのは、あの一羽の大きな烏。先ほどまでノーマンさんが座っていた場所だった。
そんなはずはないだろう。僕は頭に浮かんだ考えを拭うように部屋の中を見渡したが、そのどこにもノーマンさんの姿はなかった。
「痛っ!」
未だ混乱した頭に、男の人の声が届いた。再び視線をそちらへ戻すと、烏が男の人の指を
ガー
その大きな一声で、どこに隠れていたのか部屋のあちこちから黒い影が集まりだした。バサバサと羽ばたきによる風が頬を撫でる。大量の烏が一ヶ所に集まって蠢く。それはもはや烏ではなく、ブヨブヨした大きな塊だった。
「手ェ出すな」
それはかろうじて人の形を保っているその黒い塊から聞こえた。ノーマンさんの声はずっと同じ場所から聞こえる。だがそれは一羽の烏であって、今は得体のしれない黒い影だ。
「えいっ!」
掛け声とともに、黒い影から一本の腕が生えてきた。影の向こう側にいた男の人が、それを貫通してこちらに腕を伸ばしたのだ。男の人は手をグーパーと開き、ゆっくりと影から抜いていった。
「うっ、うぇー……」
どうやらそれは相当に気持ちが悪いらしく、男の人は顔を歪めた。その動きに比例して、ノーマンさんだと思われる黒い影の息が漏れる。
「……っおい、……何しやがる!」
息を切らしたように、ノーマンさんは叫んだ。
「アハハッ、ハハハハハ!」
その苦しそうな様子も、この男の人には面白いのだろうか。男の人は笑いが止まらないかというように、お腹を抱えて涙まで流した。
「何が面白いんだか。お前さんはこいつと関わるんじゃねぇぞ。見かけたらすぐ距離を取れ」
影がゆっくりとノーマンさんの形に変化し、彼は真剣な表情で僕に言い聞かせた。もう
「そんなこと言うなよ」
姿が定まったノーマンさんに寄りかかるように、男の人はワイワイと喋りだした。ノーマンさんもその様子に諦めがついたのか、険悪な雰囲気は消えていた。
「次、烏になったら出禁にするからね」
その二人に釘をさすように、笑顔を強張らせたマスターさんが口を挟んだ。
「悪かったって。もうしないから、大目に見てよ」
「悪いのはこいつだろ。俺まで巻き込むな」
「…………」
片手に烏の羽が詰まった袋を持つマスターさんの目は笑っていない。彼女の無言の迫力は凄まじかった。
「す、……すみませんでした」
「ここは食事をする場所です。清潔を保たなければならないんですよ」
「はい、承知しています……」
「いや、つい……」
二人はマスターさんに頭が上がらないようで、随分と小さく丸まっていた。
「今日はノーマンの奢りね。次はないから」
烏の羽が入ったグラスは片付けられ、新しく並々とオレンジジュースが入ったグラスが出された。
「……ツケといてくれるか?」
「はいはい」
その掛け合いは手馴れたもので、なんども繰り返してきたかのような雰囲気だった。
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