第186話 4月8日 新学期

「行ってきまーす」

「いってらっしゃーい」

 風の子園の玄関を一番に出たのは孝太郎だった。隣の駅の公立高校に通うことになり、早く家を出るようになった。

 続いて出てきたのは中学生。沙織も新しい制服に身を包み、みどり、美穂と優二4人で連れ立って歩く。

 次は小学生組。はるながピカピカの一年生となり、すっかりお兄さん気取りの毅や隆明が後ろにぴったりと突いて歩く。

 拓は最上級学年になり、登校班の班長としてみんなを先頭で率いる。5年生になった翔馬が副班長として最後尾につき、列をはみ出す子供を注意する。

 千帆は保育園に行けるようになった。まだ周りとなじめず独りで遊んでいるが、あの食堂の隅っこで絵を描いていた頃とは格段に進歩した。



 陸上部の部長は原田になった。去年の夏以降は、なかなか思うように学校の機能も働かない部分があり、部活の結果を残せない者もいた。それをみんなで取り返そうと気持ちを盛り上げる。

 後輩たちも誰1人退部することなく、一緒にまた活動できることに嬉しさを感じていた。



 学校内も雰囲気はがらりと変わった。

 安西とつるんでいたグループのメンバーは、自分の行いの代償として、ある者は一家で親の実家へ移り、ある者はフリースクールへ通う。

 残った者もあの頃の鳴りを潜めクラスを構成する一員となっている。

 元の生活には完全に戻れなくとも、一連の事件が各々それまでの道や自分を振り返るきっかけとなったことには変わりない。ここまで模索する時間も十分あった。人の道に反したとはいえ中学生。やり直す時間と機会はまだ残されている。後は自分次第なのだ。




「いやあ! 同じクラスー! 本年もよろしくお願いします」

「なに年賀状みたいな挨拶してんの。こちらこそよろしくお願いします」

 お辞儀を交え、冗談交じりに会話していたのは吉岡と岡本だった。そこへ安藤がやってきた。

「あらー! 同じクラス! よろしくねぇ!」

 ばしばしと肩を叩きながら吉岡がにこにこ声をかけた。安藤もまんざらでもなく「よろしくねぇ」と返した。そうしていると飯田も同じ教室内にやってきた。一緒にいるような仲ではないが、手を振ると振り返してくれた。


 このクラスの副担任が菊本になった。帰り際、こっそりと吉岡は尋ねた。

「黒崎先生って、今どうしてるんですか?」

「もう教職から離れて、実家に帰ってるよ」

「ほお実家、ですか。どこです?」

「三重県だって」

「そうですか。ちょっと遠いですね」

「でもこの前久しぶりにメールしてみたら、向こうでバイトだけど就職先みつけたっていってたよ。なんとかやってるみたい」

「それならよかった。安心しましたよ」

 吉岡はぺこっと頭を下げて去っていった。





「俺ら同じクラスだよ! よかったなー」

「あ、ほんとだ! もしかして先生気を使ってくれたのかな」

 泊と川口が、クラス替えの表を見て喜んでいた。小島も、半谷も、小原も、渡辺も。そして石田の名前も見つけられたからだ。

「また帰りに寄ってみようぜ」

「うん、行こう行こう」



「こんにちはー」

 石田の家の呼び鈴を押すと、中からショートボブの女性が顔を出した。痩せてはいるが以前の陰鬱な表情はもうどこにもない。いらっしゃい、とにこやかに大所帯の生徒を迎え入れた。

「今日から学校でしょ? クラス替えどうだった?」

「俺ら同じクラスでしたよ。だからまたちょくちょくきていいですか?」

「ええもちろん。あの子も喜ぶから来てやって」

 綺麗に片付けられた家の階段を上っていく。2階に上がってすぐ、大きな床の傷が目につく。傷というより木の割れ目だ。いつも来るたび思うのだが引っかかって危なくないのかな、と気にしつつ誰も聞かなかった。


「おっじゃまー」

 石田の部屋のドアを開ける。彼も目線をこちらに向ける。返答がないのはもう慣れた。

「どう調子は」

 ぱちぱち瞬きする。少し笑っているようだ。

「いい感じじゃん。俺らまた同じクラスになったよ」

 そう報告するとわずかに首を動かしてまたぱちぱち瞬きする。嬉しい様子でさらに笑った顔になる。

「後でおばさんにも言っとくけど、教科書とか……」

「ちょっと」

 小島がしゃべる泊を制した。何事かと話を止める。小島がじっと石田の顔を見た。口がパクパク動いている。

「うい……うぁ…………わ……」

「ん? なんだー?」

 泊が身を乗り出す。

「ふい……あわ……わ」

「え、なあに?」

 小島がさらに顔を近づけた。

「ふじ……さあ……ど……した?」

「ふじ……? 藤沢って言った?」

 するとかすかに頷き返し、またぱちぱち瞬きした。泊が大慌てで廊下へ飛び出した。ただ単に呻くような声を出していた今までとは違う、明らかに「言葉」を発している! 女子組は泣き出した。

「喋った……、喋った! おばさん! 石田がなんか言ってる! 喋ってるよぉ!」





 真子がふんふんと何か訴える真哉に近づく。

「おなかすいたねー?」

 授乳の時間だ。もう回復して歩けるようになってきたので、何かあればすぐに駆け寄ることができる。

 抱き上げてベビーベッドから降ろし、椅子に腰かけておっぱいをのませる。

 スンスンと息をしながら飲む息子を愛おしく眺めていると、一気に玄関がにぎやかになった。

「ただいまー!!」

 始業式を終えた小学生が元気よく帰ってきた。すぐにお昼お昼と騒ぐ。

 瑠奈が一旦千帆も連れて風の子園に戻っていた。手伝う小学生と一緒にみんなのお昼を作ると、千帆に小さいお皿を渡した。それを食堂の隅に置かれた位牌と写真の前に持っていくのが彼女の役目だ。

 並んで写真立てに納まる2人の写真が、この家の子供たちを見守ってくれる。いや、関わった全ての人間を見てくれている。そう思えてしかたなかった。


これが「普通の生活」。

これが「人間の生活」。

そして「日常」のありがたさ。


 各々が各々のペースで、直哉や真一が望んでいた生活を少しずつ取り戻しつつあった。できることなら彼らに報告したい。今自分たちは「普通」に元気で楽しく毎日を送れているよ、何も心配することはないよ、と。


 千帆は写真立てを無言で数秒じっと見つめた。ちょっとだけ笑うと、くるっと振り返り自分の席へと向かった。





――終――

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天使のひとかけら 時岡ハナオ @tatarinovii

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