第164話 12月9日(4) 家庭崩壊
「翔……だめだったよ、お母さんの力じゃ連れて来れなかったよ、ごめんね……」
横たわる息子の頭をそっとなでながらうつろな目で話しかける。そして、身ごもった真子のことをぼんやりと思い返しては、これから訪れるであろう、誕生の喜びを感じる権利を得た彼女に強い妬みを抱いた。
「……憎ったらしい……私の前で見せつけた……同じ目に逢って絶望すればいいのに」
頭をなでる手が止まる。
「同じ目に逢わせれば、こっちの気持ちがわかるだろうに……そしたら藤沢直哉を連れて来れるかも……」
まともな思考はもうできなかった。ただひたすら一方的な逆恨みに感情を支配された。精神的にも疲弊しており、息子の眠るベッド脇へ左腕を枕にし突っ伏した。
「それならもう一度契約しませんか?」
背後で男性の声がした。いきなり誰だ!? と振り返るが部屋が暗く顔がよく見えない。
「あの女の子供を同じ目に逢わせる。ただ、その代わりあなたも何か1つ失うことになります。それでもよろしければいかがですか?」
「翔だけは! 翔だけ残ってくれれば何もいらない!」
とっさに口をついて出た言葉に自分で驚いた。何を言ってるんだ、と一瞬思ったものの、今は精神的苦痛に勝手にただただ仕返ししたいと思うだけだった。
「では、これをお飲みください」
いつも飲んでいる栄養ドリンクの瓶が差し出された。あれ、もしかしてこの人は……いや、もうどうでもいい。自分の気が晴れるのであれば。
受け取った瓶を一気に飲み干した。ものの数秒で強烈な眠気に襲われまた突っ伏した。
パッと目が覚めたのは夕方5時。外はもう真っ暗だ。部屋の中はより真っ暗になって足元もよく見えない。
手探りで立ち上がり、部屋の電気をつけた。飲んだはずの瓶は見つからない。それ以前にそんな人物が家に入ってきたなんて、あれは夢だったのかもしれない。記憶をたどってみるが、ありえないだろうとしか思えず考えるのをやめた。
「加奈子! おい、加奈子!」
夫の声が下から呼んでいる。ふらふらと階段を降りる。
「お前、俺がどれだけ翔のために走ってるかわかってるのかよ!」
義勝が怒鳴る。その後ろで大地がにらみつけている。そういえば書面を見ておいてほしいと言われていたものがあったんだ……そんなもの見る気力もないし、必要だってないのに。
「先生のとこいくのも、相手との交渉の準備だって俺1人でやるのは無理だよ、仕事やってこれもやって、それでいてお前は家のことすら何にもしない、この書類すら読まない! どういうつもりなんだ! 翔の事だぞ! なんで協力しないんだよ!」
「だって……だって……藤沢直哉が……治してくれないから……」
「はぁ? 何言ってんだよお前、なんだ藤沢なんとかって! そいつがインチキ医者か!? 治してくれないとかじゃなくて治らないんだって! だったらそれ相応の治療費とか慰謝料とか……」
「治るの!!」
義勝の言葉を遮りヒステリックに叫ぶ。今度は後ろで見ていた大地がとうとう我慢できず叫ぶ。
「いつまでもバカなこと言ってんじゃねえよ! 迷惑なんだよ! どういうつもりなわけ? 翔を殺したいの?」
「ちがっ! 違う!」
「じゃあなんでいつも父さんばっかり駆け回ってんだよ! 家の事しない、往診も断る、薬も貰わない、何なの? バカなの!?」
加奈子はキー、キャー、と何度も叫び泣き喚く。
義勝は大きくため息をついた。
「お前がこんな物分かり悪い奴だと思わなかった。訳のわからんことばかり言って、医者の言うことも聞かない、こっちの親のもそっちのお義母さんの援助も断りやがって! お前の面倒まで見る余裕はこっちにはないんだよ! もう勝手にやれ!」
義勝は加奈子が手を付けなかった書類を床に投げつけた。そして乱暴な足音でリビングへ入っていった。
大地も「つきあってらんね」と言い残し、その後を追った。
加奈子はただただ言葉にならない声をあげ、子供のように感情をむき出しにして泣くだけだ。誰一人戻っても来ない。声もかけない。よたよたと伝いながら息子のいる部屋へ戻る。
数分ほど家中を歩き回る音がし、玄関のドアが開いた。続いて車が発信する音がする。2人はそれから帰って来ることはなかった。
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