第147話 脱走

 風の子園の電話が鳴ったのが夜8時。

「は……え!?」

 福島のひっくり返るような声が響く。今日はたまたま小学生以下だけ先に祥願寺に行っていたのでまだ真一も園にいた。

「え、いや、いません……え、え、何で……」

 明らかに狼狽えている。園長がどうしたのかと寄ってきた。電話を切ると、園長に震える声で伝える。

「直哉がいなくなったって、病院から」

「ええっ!? 何で! ろくに動けないのに!」

 これには園長も大声を上げた。

「とにかくすぐ探しましょう、あの足じゃ遠くには行ってないはず」

「トイレの中で倒れてるんじゃ」

「全部探したって。赤い髪の男の子が外出てくの見たって人もいるんだよ」


 真一はすぐに察した。騙された! 自分の能力を最初から充てにするつもりだったんだ……。額のキスは全身麻酔のようなもの。全ての痛みを取ってしまう。自分の行為を悔やんだ。



 でもどうやって黒崎の元に行くつもりだろう? いや、もしかしたら菊本か? どちらであっても急がなければ何をしでかすかわからない。大声で、先生のところかもしれない、と福島に向かって叫ぶ。

「先生? なんで先生……」

「いいから、昼間先生の話してたんですよ、もしかしたら行ってるかもしれない」

「でも場所、俺知らないよ」

 クラス連絡網も電話番号しか載っていない。美穂も優二も、孝太郎だって住所までは知らない。

 誰かに事前に聞いていたか、直接聞いたかどちらだろう。それに、黒崎は知らないが菊本はここから2つ先の駅だと前に聞いたことがある。もし黒崎の家の方が近ければそちらに行った可能性が高い。追えば間に合うかもしれない。


 優二が原田に連絡をして、黒崎先生の住所を知っていたら至急教えて、と友達に回してもらった。

 連絡して10分後、住所が返ってきた。1駅隣だが歩いていけない距離ではない。病院から見て風の子園とは逆方向の線路沿い近くのアパートだそうだ。

「僕行きます! 僕のせいだ!」

「なんでお前のせいなんだよ」

 福島が不思議そうな顔で聞き返す。園長もあなたはまだ怪我が治っていないんだからと諭したが、事情を知っている美穂が「私が一緒に行くから連れてって」と必死で頼み込んだ。

「直哉を説得できるのは真一しかいないんだよ。お願い」

 何で直哉が黒崎のところへ行くのか正直美穂も解らなかったが、真一の様子を見ていると自分たちが介入できない緊急の事に違いない、と察した。


「やめなよ、そんな、まず警察が先だよ……それにいきなり行っても周りに迷惑に……」

 横から不安たっぷりの声で優二が止めようとしてきたが、美穂に「うるさいヘタレ!」と一喝され黙ってしまった。

 1人おろおろする優二を尻目に、美穂は率先して真一を手助けしながら外へ向かう。福島が車を出し、園長が助手席に乗る。教わった住所を頼りにアパートへ向かう。

 もう夜9時近い。突然訪ねては迷惑だと園長が携帯電話でまず連絡を入れてみる。




 呼ぶが出ない。そうこうしていると目的のアパートの目の前に来た。3階建てのアパートの2階、端から2番目の部屋。

 割と新しいアパートだ。外壁も綺麗で管理が行き届いているのか階段の金属の手すりは光沢を放っている。

 停車場所を探す福島に痺れを切らし、真一と美穂は一旦車を止めてもらい先に降りると、できるだけ急いで階段を登って行った。うまく動かない足がもどかしい。多少痛くても杖を突かずに気合で登った。


 すると1つのドアの前で人が立っていた。ラフな格好で大学生くらいの男性だろうか。そこは黒崎の部屋ではないか?

 美穂が声をかける。

「ここのかたですか?」

 男性は首を振った。

「さっきからここの人、ぎゃーぎゃーうるさいんですよ、ったく何やってんの?」

 真一は2人を押しのけ、ドアを思い切りガタガタと揺らした。

「開けろ! 直哉! いるんだろ! 開けろ!」

 反応がないのでさらに激しくドアを叩き、蹴る。各所の傷に響いても気にしていられない。拳をひたすら打ち付け、呼び鈴をしつこく押す。


 美穂もその若者もやりすぎではないかと真一の行動を止めに入った。しかし怪我人と思えぬ力で振り払い、ドアを殴り続ける。

 突然、カチャと鍵の解錠音がした。3人ともドアから離れた。少しずつ、扉が開く。澱んだ空気が漏れ出てくるのを感じた。すかさずその隙間に手を突っ込み、真一がドアを引いた。

 ガタン! と大きな音がしてドアが止まってしまった。チェーンロックのせいでそれ以上開かない。それでも真一はドアを引き続ける。中を覗く。人影が必死でドアノブを引いている。それは間違いなく、黒崎だ。髪もひげも伸び放題の、人が変わってしまったような……。

「くっそ!」

 とうとう暴挙に出た。自身の法具を出現させてしまった。短剣のようになっている十字部分の短い先端を、そのチェーンめがけて突き立てた。派手な金属音と共に粉々に砕ける。男性がヒャアと声を上げ後ろにのけぞる。


 黒崎を押し倒し土足のまま中へ転がるように入り込む。彼とすれ違ったとき、はっきり血の匂いがした。

「直哉! 直哉!」

 部屋の奥についた時、きょろきょろと見回した。切れる寸前のような暗い電気の下、倒れている脚が見えた。

「なお……」

 後からちゃんと靴を脱いで入ってきた美穂が追い付くと、真一の見ている先を見るなり叫び声を上げた。

 黒崎が呆然としながらこちらへふらふらと近寄る。

「何を……し……」

 法具を握る真一の手が震え、素早く振り向く。美穂はその顔をみて恐ろしくなった。見たことない顔だ。相手を睨みつけ、まるで蛇のような目……普段の優しい彼の雰囲気はない。直哉が不良たちと闘った時と比じゃない殺意が滲み出ている。

「ちょ……」

 手をかけることすらためらうほどだった。



「この……人間ごときがあああぁぁぁ!!」



 肩で大きく息をしながら唸るような叫び声と共に、目に留まらない速さで黒崎のもとに飛び、左手を伸ばして首元を抑えるとそのまま勢いで壁に押し付た。黒崎は顎を下から押さえられ、上を向かされた苦しくてむせながら待ってくれと哀願するが、そんな言葉は意に介さず、右手でつぶさんばかりに柄を握りしめ、刃先を喉に向けて振り下ろし……


「……んいぢィっ!」

 半分悲鳴のような呼び声がした。直哉のものだ。その声に我に返ったかのように真一が動きを止め振り返る。

 そこには荒い呼吸で必死に呻きながら起き上がろうとしている直哉の姿があった。


 口や鼻から血を流し、服は破れ、目を腫らしている。

「……っ」

 悔しそうに喉の奥で声を漏らすと、再び黒崎に向き直りその右手に力を込めた。歯を食いしばり、その振り下ろしたい衝動を必死で抑える。

 柄に巻き付いていた蛇が大口を開け牙をむき、黒崎の目前に鎌首を突き出し威嚇した。彼は噛まれると思い必死で手で顔を覆い、嗚咽を漏らしながらやめてくれ、許してと怯えるだけだった。



 ぱっと左手を離し、掌からその法具を消し去ると直哉の元へ駆け寄る。そしてぎゅっと抱きしめた。

「どうしていつもこうなの! 何でもかんでも自分のせいにして! どこまで自意識過剰なの!? 自分を何だと思ってんの! この世の中心とでも思ってんの!」


 壊れた再生機器のようにごめん、大丈夫を繰り返すだけの直哉。

 抱き着いたまま大泣きする真一。

 へなへなと崩れ壁際でうずくまり、咳き込み泣きじゃくっている黒崎。

 誰に何と声をかけていいのかわからずそのまま突っ立っているしかない美穂。

 外で隣の部屋の男性もうろたえたまま。

 園長と福島がやっと追いつき、一体何があったのか美穂に聞いた。でも何も答えられない。

「とにかく、救急車と、警察を……」

「だめ……警察はダメ……」

「何言ってんだよお前! こんだけ暴行受けて、立派な傷害だろ!」

 福島が声を荒げる。そして後ろを振り向き、ありったけの怒りを声に変えてぶつけた。


「あんた、うちの子供に一体何してくれてんだ! 担任だろ! 教師だろ!」

 黒崎は何も言えない。汚れたスエットに直哉のものと思われる血がついている。こいつが殴った、襲った、そう思うと蹴りの1つでも入れたい衝動に駆られる。

「落ち着きなさい、福島君」

 園長が福島の後ろからなだめる。直哉がとぎれとぎれ声を出す。

「先生は……悪くない……悪魔がいて……それを追い出そうと……こうなっただけ……」

 真一はどこまで信じていいかを勘ぐった。悪魔だなんて、園長も福島も信じる筈がない。福島は誰か他人がいたのかと尋ねる。

「うん……もう、出ていった……」

 ドアの前に隣の部屋の男性がずっといたのに、誰も出て来ていないと言われればすぐにばれてしまう。見え透いた嘘ではあるが、彼を守るための精一杯の嘘だ。


「誰にやられたの? どんな奴なの?」

 園長も逃げたのなら追わなければ、との想いで特徴を聞いた。それならそれで警察に言わなきゃ、と諭す。

 ふいに、後ろから声がした。

「俺です……俺が……殴った……」

 黒崎が床に手をつき這うように近づいた。

「先生ぇ……黙ってて!」

「いいや、俺です、俺が……」

 後は言葉にならなかった。泣き崩れてそのまま床に顔を伏せた。直哉が近寄ろうと立ち上がった。

「ちゃんと立てるから……大丈夫だよ……」

 そう言って一歩踏み出したものの、すぐフラッとよろけた。美穂が慌てて支える。

「どこが大丈夫だよ、全然だめじゃん!」

「何があったのかは、とにかく病院に戻ってから聞くからな。後あんたも一緒に来てもらうよ」

 福島は黒崎を立たせようと腕を引っ張った。黒崎はふらふらしながらも従った。外にいた男性は何か手伝いした方がいいかと尋ねたが、今日はもう大丈夫だから戻ってくださいと園長が帰した。

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