第105話 10月14日(2) 聞きたかったこと

 志保の表情はずっと穏やかだった。過去を話すのは辛くないのだろうか。彼女の顔を直視できず、注文したドーナツのあたりを見ながら頷く。

「ずっと何か悪いことをしたから嫌われてると思ってたんだ。でもそうじゃなくて、私の性格が虐め易かったからだったって。何か言われても言い返せないし、ずっと怯えてて、勉強もできない、身なりも汚い、やることも遅い。だから見ていてイライラしたんだろうね。からかうのに絶好のおもちゃだったんだよ」

 ここまで話すなんて飯田とどれだけ深い話をしたんだろう。その驚きもあるが、志保が自分からそれを飯田から聞きだした勇気もすごいな、と思った。自分の嫌なところをあげ連ねられるなど耐えられそうもない。

「朱音ちゃんは覚えてるかな、学校に来たらいつも私が後ろくっついてて……迷惑だったんじゃないかって……」

「そんなことない!」

 思わず大声を出してしまい周りが振り向いた。しまったという顔で壁際に顔をそむけた。


「そんなこと思ってないよ、むしろさ、私の方こそ……あの子たちに止めろっていう事すできなくて」

「言ってたよ。堂々と」

 えっという顔をした。

「男の子にぶたれている時に、割って入って蹴散らしたのを覚えてる」

 あっ、そういえばそんなことあったな……言われて思い出した。すっかり記憶が飛んでいた。

「飯田さんはなんて? 理由聞いただけで終わりって訳じゃないでしょ?」

「もうしない、ごめんて言われたから、もういいんだ。だからその代わり仲良くしてねって」

 吉岡は信じられないという顔をした。

「恨んで仕返しすればいいと思ってたけど、違ったんだよ。あの子はそんなこと願ってなくて」

「あの子って?」

 志保はあっと口元を手で隠したが、

「ごめん。言い間違い」

とごまかした。吉岡もそれ以上深くは聞かなかった。


「そうだったんだ……志保ちゃんすごいね、悟ってるよね。すごい人間出来てるよ」

「みんなの助けがあったから」

 首を横に振りながら答える。

 どこまでそんなにいい人になれるのか。本当に不登校の間、何があったのか。吉岡はこの勢いでどうしても聞きたいことがあった。少し口の中が渇いてきたので、アイスティーを勢いよく吸う。歯に染みるほど冷たく感じた。



「ねえ、言いたくなきゃいいんだけど……学校来なくなってからどうしてたの? おじさんもおばさんも会わせてくれないし、窓が開いたの見たことないっていうし、死んでるって噂もあったの」

 一呼吸おいて、思い切ってぶつける。

「虐待を受けているんじゃないかって」

「……」

 吉岡は目を見られず下を向いた。

「否定はしないよ。でも肯定もしない。今は優しいもの。さっきあんなこと聞かれちゃったけど」

 その答えに、吉岡には両親すらかばっているのではないかと思えた。ようやく1人で背負い込んだ辛い重荷を、周りに助けられながら少しずつ降ろし始めているように見えるが……家庭のことになると第三者が入れない。それゆえ家庭の問題だけは未だ1人溜め込んでいるのではないか。

 だからせめて文化祭くらい、今まで学校生活も家庭生活も楽しんでこられなかった分、周りの子供と同じように笑ってはしゃぎたいと考えたのだろう。それくらい望んだってバチは当たらない。


 ならば自分の役目は安藤や飯田に火をつけて、企画を再度盛り上げること。志保はきっとそれを頼みに今日自分を呼び出したのだ。

「もういいよ、志保ちゃん。ごめんね変なこと聞いてさ。言いたいことは分かった」

「ううん、私も話せて少しすっきりした。本当に。誰か聞いてくれるっていいね」

 志保もアイスティーを少し飲んだ。吉岡はこれ以上何か言うと自分が泣きそうだったので、2つ目のドーナツをはぐはぐと食べだした。



「あたしね」

 再び志保が口を開く。

「めーどかへってよく知らないの」

 やる気がある割にこの知識はなかったようだ。この前見せてもらったようなフリフリの衣装を着るという事だけは分かった。

「まあ、このお店みたく飲んだり食べたりできるとこを作ろうって話だよ。店員さんがかわいい子とかイケメンお兄さんだったり、メイドカフェにこだわらなくてもコスプレして何かできれば面白いと思うんだよね。そうすれば容姿に自信がない子だって何でも変身できると思うんだ」

「ふーん。あたしにもできることがあれば何でもやるよ。お願い。なんとか安藤さんと飯田さん巻き込んで盛り上げてあげてよ。それができるのって朱音ちゃんしかいないと思う」

 急に持ち上げられて、プレッシャーと照れ臭いので「いやいやそんな」というしかなかった。しかし先の通り、企画をつぶすのはもったいない。自分だってもろ手を挙げて賛同したクチだ。責任はあるはず。それにもう時間がない。

「明日から頑張ろー!」

 ドーナツ店を出て、吉岡は小さくガッツポーズをして見せた。今日はありがとう、とお礼を返し、そこで別れた。




 志保が家に帰ると母親がおろおろしていた。父親はいなかった。どうせまたパチンコに行ったんだろう。

「どこ行ったのよ! あんたがいなくなったら困るんだよ!」

「友達と会ってたの。家出したわけじゃないよ」

 母親が何を心配しているかは察するに易かった。自分が杉元に、父親から受けた仕打ちを報告しに行ったと思ったのだろう。

「何かあったら私たち終わっちゃうんだよ!」

 いつまでも喚きながらついてくる。振り返り言い放つ。

「さんざん放置してたくせに、いないと困るって? だったら親である前に人格どうにかするんだね。あんたのしたことは犯罪者のやることだよ」

 母親は卒倒しそうな顔で黙って見ている。言いたいことを言ってやった。やっぱりちゃんと面倒見るなんて言って、最初だけなのだ。


 パチン!


 志保の顔に手が飛んできた。頬を抑えて睨み返す。

「ガキのくせに、大人に生意気な口きいてんじゃないよ!」

 母親がわめき始めた。

「自分のことしか見られないような人間に言われたくない。それともまた、あたしをクーラーボックスに入れて放置する?」

 母親が怯えた表情になり、わなわなと唇を震わせ始めた。志保はじっと見つめ返す。

「やっぱり私は不要な子供? 産まなきゃよかったって思ってる?」

 母親が小刻みに首を横に振った。

「邪魔なの?」

「ちがう! ちがう!」

 母親が髪の毛が乱れるほど頭を振り、壁に背中をこすりながらしゃがみ込み泣き叫ぶ。

「じゃあなんなのよ、あたしがここにいるのが迷惑ならいつでもでてくよ」

「だめ! それだけはやめて!」

 突然スカートのすそをぐっと握られた。逃げようかと思ったがそれ以上何かしてくる気配はない。……ああ、この人間たちは大人になり切らないまま親になってしまったんだな、と志保は感じた。

 自分の癪に障ることがあると当たり散らし、思い通りにならないと泣きわめいてだだをこねる。自分が窮地に追い込まれると何をしていいのかわからずに見ないようにする。


 スカートを握る母親の指をはがしながら話しかける。

「……あたしだってここで暮らしたいって思ってる。だから子供を八つ当たりの道具にしないで」

 それだけ言うと自分の部屋へ入って戸を閉めた。

 このままここにいられるだろうか。こんな親と仲良くできるんだろうか。なんとなく近づけたように思えたのに。慣れると本性を出してくる人間たち。あっちの世界と一緒だ。悔しいのと悲しいので、声をこらえて涙を流した。

 親子って何だろう。普通に家庭がある人間は、普段どういう生活や会話をして、大人たちと接しているんだろう。そう思えば思うほど、本物の吉田志保の「ささやかな願い」がどれだけこの家で難しいかを思い知った。

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