第80話 8月9日(1) 絶望の箱の中


 夜中。もう部屋の電気も消えて真っ暗だ。志保の意識がようやく戻り、ふっと目を覚ました。父親のいびきが聞こえる。それもそのはず、時計を見ると3時だった。


「どうなってんだ……」

 自分がやたらと暑い格好をしているのに気づいた。学校のジャージ、しかも長袖に長ズボン。誰のだ? 手首を見ると最初に自分が見つけて巻いたタオルではなく、別のタオルがぐるぐる巻かれている。これも誰のだ?


 指を動かそうとすると鈍く反応した。問題なく再生は進んでいる。ただ痛いし、まだ「相当深く切った傷」程度までの回復しか進んではいないようだ。

「もうちょっとかかるか。まあいいや、朝にはどうにかなるだろう」

 いくら不老不死と言えども、生命活動を維持することができないまで体が傷ついたら一旦仮死状態になる。全体力は再生に注がれ少しずつ再生を始めるが、損傷程度でそれなりに時間はかかる。活動できるまでに戻るまで昏睡状態あるいは死んだ状態と同じだ。


 あまりの暑さに着替える。服を脱ぐと下着は血まみれのままだったのに気づいた。さすがにここまでは脱がさなかったか。今のうちに洗っておきたいが、手が言うことを聞かない。しかし着替えておかなければ何かで見られたとき厄介だ。腕を気遣いながらゆっくりと着替える。


 何もすることが無くなって、再び横になる。まだ朝まで時間がある。物音もしない。光もない。こんな静かで時間が止まったかのような環境、いったいどれくらいぶりか。何の心配もせずに眠っていられて、明日だれにまた犯され殺されるかなど考えなくてよい。


 暗い部屋でぼんやり天井をみあげていると、昼間のことがだんだん思い出されてきた。

 自分の腕の中に人間の体を手に入れるところまではできたのに。その後が進まなかった。じわじわと悔しさがにじみ出てくる。

 真一が悪魔だったなんて、しかも使い魔もちで、その蛇にやられるなんて!

 死神も私の腕を躊躇なく切り落とした。敵だとわかれば、いくら仲良くしていた女だろうが何だろうがあいつは容赦しないんだ。



 左腕を目の上にのせ、歯を食いしばり声をあげずに泣いていた。どうして自分ばかりうまくいかないのか。周りの者は自分が憧れているもの、欲しいものを次々手に入れているっていうのに。

 少し前までこんな体のせいで、だれからも愛されずに毎日虐げられ、大事な人が年老いて先に死んでいくのを見続けなければならなかった。



 何より双子の姉は同じ身体なのに、男たちをはじめ女や怪物からも崇拝され、むしろ彼女が彼らをいたぶっているのに、彼らは少しも離れようとしない。自分が相手に少しでもものを言えばたちまちひどい目に合う。一体なんの差だったのか。


 早く終わりにしたいのに。それすら叶わない自分の体。ようやっと見つけた死神が目の前にいる。なら何としても利用したい。彼がどこかへ消える前になんとしても……。


 それにここに来たのは、杉元との契約もある。条件として「死神の能力を一度でもいいから使わせる」というものだ。魂を抜き取り入れ替える、生命力を他人から分ける、そのどちらでもいいから使わせれば、自分の安泰を保証してくれるというものだ。

 こんな失態あいつにばれたら、あっちに連れ戻されるかもしれない。それだけは嫌だ! もう二度と戻りたくなくてここに逃げ込んだのに。死神があたしの言うこと聞いてれば……あんな人間1人くらい、入れ替わったって大したことないじゃないか!



 怪我をしたって、死んだって、誰一人心配などしてくれない。自分の願いも意見も、耳を貸してくれる人もいない。自分という人格はないも同然なのだ。記憶を譲り受けたこの子と同じなんだ。何したっていいやつ、どう扱ってもいいやつ、そんな風にみられるのは悲しすぎる。

 どこへもぶつけられない怒りと屈辱。その時、この暗闇がクーラーボックスの中のように思えた。ひどく暑く、酸素も薄く、絶望の詰まった箱の中でも必死で助けを求めてママ、パパと呼び続けていた。その声は悲しくも無視され、この子の命は尽きた。


 幾度となく自分も「死」というものを体験させられてきたが、まざまざと彼女の死ぬ間際の記憶を見せられるといたたまれなくなった。頭の中に恐怖で狂ったように泣き叫ぶ声が出口を探せずに延々と反響する。

 自分の体を爪が食い込むほどにぎゅうっとつかむ。必死でこらえていたが、とうとう耐えきれずに嗚咽が漏れる。一度声を上げ始めるともう止まらなかった。

 結局はこの世界も絶望の詰まった箱の中と一緒かもしれない。体の自由こそあるが、かすかな希望も入り込む余地のない、逃げ場のない箱の中。

 人間には絶対に見られたくなくて枕に顔を押し付け、必死に声を殺して泣いた。



 どのくらい時間がたったのか。涙を流したことで少し落ち着いた。腫れぼったい瞼を押し上げると、カーテンを閉めずにいたので窓の外が光を浴びつつあるのが見えた。まだ暗い西の方には星が数個残っている。

 眠くもないので景色を見る。始発電車だろうか、1両に2~3人いるかいないかのまばらな人影を乗せて、タタンタタンとリズミカルに音を立てながら線路を滑っていく。

 周りにとっては静かで荘厳な新しい1日の始まりなのだろう。でも自分はそんな感覚を持ったことはない。成長もしない、歳も取らない。傷つく前の綺麗な体に戻り、永遠と「昨日」と「今日」の間を往復しているだけだ。

誰かが起きるまでそのまま外を眺めていた。




 午前7時半。最初に起きたのは母親のほうだった。志保が起きているのを見ると安堵の表情を浮かべた。

「心配したよ、ずっと起きないんだもの。大丈夫?」

「うん、大丈夫」

 無理に笑顔を作って返事を返す。

「今日は学校ないんでしょ、図書館とかモールとか、どこか涼しいところに一日いた方がいいんじゃない? 家にいても暑いしまた倒れちゃうよ」

 図書館? モール? 一体なんなのか。 何それとも聞けず、ただ「うん」とだけ返した。

「ああそうそう、送ってきてくれた男の子がジャージを返せって言ってたよ。洗濯して返しにいったら」

 やっぱりあの2人だ。自分の制服はどこへやったのだろう。まあ後で聞けばいい。


 今度はちゃんと使い方を教わり、食事の前に洗濯機にジャージの上下とタオルを投げ込んでスイッチを押した。ウゴンウゴンと回りだすのを見届けるとその場を去り、気付かれないよう昨晩の下着も部屋からとってくると一緒に放り込んで洗った。

 回転する赤みを帯びた水を見ながら、母親が身を心配してくれたことに安堵していた。心配したよ、だなんて今までかけてもらったことのない言葉。


 虐待された記憶があるのに、なぜ、そんな一言で怒が収まるのだろう。やったことは確かに許せない。なのに不思議と母親に対する憎悪のような感情は、この一言でしぼんでいくのがわかった。親から愛してもらいたいという願望が少し満たされたからだろうか。

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