第54話 7月5日 新しい「娘」
「あ……あの、はじめまして、よろしくお願いします」
まぎれもない、本当に1人の女の子がそこに居た。二重で目がぱっちり大きく、顔の輪郭はなめらかな曲線を描き、顎の部分で少し鋭角になっている。きゅっと結んだ唇は小さいながらもふくよか。アイドルグループにいそうな美少女と言っていい。
緊張しながらも頭を下げる女の子。2人はあ、あ、と情けない声を出すのが精いっぱいだった。
「こっちこそ……よろしく……お願いします」
やっとのことで挨拶を返す。
「あ……ああ、入って、どうぞ」
女が招き入れる。靴を脱いで少女が部屋に上がり、夫婦の後に続き居間に入る。居間も結構片付けたので3人座るスペースは十分確保できていた。
「1人でここまで来たの?」
各々座ると男が聞く。少女は首を振り、近くの駐車場に車で送ってもらい、この通りの人がいなくなる時間まで待っていたという。遅くなったのも人が居たため動くに動けない状態だったようだ。
「私は『吉田志保』って子供だって聞いてます。これから学校に通うと色々あるようなんですけど、私字も書けないし読めないです」
「えっ、字が書けないの?」
2人とも驚いた。単純に家出少女を匿っているのとは訳が違うようだ。
「杉元さんが調べてくださって、行くはずの中学校に特殊クラスがあるから、そこに入れるよう掛け合ってもらえって言っていました。私みたいな子供がいて小学校の授業からやってるとかで」
そこまで調べがついている上でこの子を送って来たのか。さすがは裏稼業といったところか。
「私は、この家でどうしたらいいですか?」
「どうするも何も……ねぇ」
本当にうまくごまかせるなら、娘のふりをしてくれていれば申し分ない。そうすれば捕まることはないし、怪しまれることもない。
「お父さんお母さんて呼んでいればいいですか? 不自然じゃないですか?」
「いい、いい、全然大丈夫!」
男が笑顔で肯定する。
「いや、なんかもう、こんなうまく行っちゃって大丈夫なのかな……。俺らも娘だから『志保』ってまた呼ばないとな。なあ」
「そうだ、そうだね、志保……ちゃん」
あはは、と力なく笑う。女は今から再び、母親となった。しかし実の繋がりのない子供をいきなり自分の子供としてみられず、なんとなく呼び捨てできずにいた。
「私もここに来られて嬉しいです」
「そう言って貰えたら俺らも嬉しいよ。親に丁寧な言葉もおかしいから、せめて人前じゃ普通に喋ってような。あ、普段だって普通に喋ってもらっていいんだからね」
まだ少しぎこちないこの家族。今からそれぞれが自分をなんとか守るための共同体になったのだ。お互いに理由も過去も聞かない。元から家族だったかのように振る舞う。余計な興味は命取りになりかねない。誰も口に出さなかったが十分に察していた。
「今日はもう休もう。なんかもう気疲れしちゃって。いきなり安心してくたくただよ。しっかし可愛いよね、14歳だけどなんかアイドルみたいじゃない?」
「またおかしな事言って、変な目で見ないでよ」
男が冗談を言って女がたしなめる。少しほぐれてきたようだ。先ほどよりは遠慮のない笑い声が沸いた。
「志保ちゃんの荷物、そっちの部屋に置いてあるからね」
「ありがとうございます」
席を立ち、後ろの襖を開ける。夏なのにすうっと少し冷ややかな空気を感じた。志保はじっと部屋を見つめる。
「どうかした?」
「いえ。これが自分の部屋かぁって」
「狭くて汚いけど自由に使って」
「ありがとうございます」
部屋に入り襖を閉める。電気をつけても蛍光灯が古いのかやや薄暗い。
中を見回す。清掃されているものの畳のシミは残っており、机にはシールが貼ってあったのを無理やりはがした跡があった。
志保はトートバッグから小さな紙袋を取りだした。中には栄養ドリンクの瓶を使い回したような、ラベルがいい加減にはがれた茶色の小さな瓶が入っていた。
「貴方の記憶……私に頂戴ね……」
少し振ると蓋を開ける。そして一気に飲み込む。一瞬気持ちの悪い臭いと味がした。無理やり喉の奥に押し込める。
吐きそうになるのをこらえ急いでトートバッグから出した小さなハンドタオルで口を押える。喉の奥がひりついて少しむせた。
しばらくたって落ち着くと、部屋の中をもう一度見た。なんだ、この感じ……。目を閉じて耳を澄ませる。
―――自分はもうここから出してもらえない。ここで死んじゃうの?―――
異常な焦りと恐怖と悲しみが襲ってきた。
――――ごめんなさい、出して! 出して! ―――
叫んでいる声がくぐもっている。呼吸が苦しい。手も足も動かない。動かせない。何を言っているのかわからないが、先ほどの男(父親)だろうか、怒鳴り散らす声がする。時たま全身に衝撃も受ける。蹴られているのだろうか……
―――ごめんなさい! ごめんなさい! ―――
頭が痛くなってきて、必死で大きく呼吸をする。暑い。苦しい。
下半身が濡れている気がする。失禁したような不快さ。それでも身動きも取れず首も痛いしお腹も痛い。
―――出して……お願い開けて―――
目を開け、この念の発信源を探る。
志保はそっと押入れの戸を開けた。……この中だ。
下段の何もない空間に手を伸ばす。板の上には何かずっと置いてあったと思われる変色が見えた。その上を優しくなでる。
この子も私と同じだ。ずっと閉じ込められ、自由を奪われ、苦しめられてきた。ただ違うのは、やっと外に出られたと思ったら生を手放した屍になっていたことだ。
今飲み込んだものは、あの業者の持ち帰ったクーラーボックスに入っていた本物の吉田志保の欠片だ。
聞こえた声と感情は、きっとあの子の最期の情景だろう。映像がないのは真っ暗で何も見えなかったから……。
新しく「吉田志保」になった少女は、小声でその空間に話しかける。
「そんなのってないよね。長かったね、辛かったね。でももう怖い思いしなくて大丈夫だよ。私と一緒ならもう泣かされたり怖い目に合うこともない。だから記憶を分けてくれる?」
魂はもうここにはないだろうが、こんな終わり方をしたのならその念は強く残っているはずだ。
少しでも細胞を体に取り込むと、その記憶を読み取ることができる能力を持っている。こうもハッキリと記憶が再生されたのなら、彼女の念を読み込むことに成功したといえるだろう。後は本物の彼女が、あの記憶の他にどれだけのものを預けてくれるかにかかっている。
そっと目を閉じた。気持ち悪さが少しずつ薄らいでいく。
しばらくして立ち上がり、押入れを開けたまま布団を敷き、持参した伸びたシャツとゴムの緩いジャージに履き替え、この日は眠りについた。
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