第12話 書物の城へ……

 ごめん。

 前の話で「二年になって、図書館司書講座の選抜試験に受かってうれしかった」と書いたけど、よく考えてみたら辻褄が合わないんだ。実際は試験に受かったのは一年の最後で、二年から受講スタートだったようだ。ゼミの選抜試験を受けながら司書講座の選抜試験を受けるなんてトリッキーなことが僕に出来るわけないね。まあ、AKBグループの選抜総選挙にはエントリーしていたけどさ。あれ、僕なにか変なこと言いました? 言ってるね。ここに時空の歪みがあるんだ。だってここは神道の牙城だよ。パワースポットだということ。当時、そういう噂は一切なかったけれどね。


 堀晋作先生のゼミ教室はちょっと離れのようなところにあった。始業の五分前に扉を開いたら、誰もいなかった。まあ、大学の授業は遅れて始まり、早めに終わると、筒井康隆先生の『文学部唯野教授』に書いてあったので、まだ五分前だし、そのうち誰か来るだろうと思った。でもね、全然来ない。「あれ、もしかして、教室を間違えたかな?」僕は焦った。焦りは僕にとってかなりの精神的負担になる。手汗をかいていた。そしたらやっとドアが開いた。来たのは、堀晋作先生だった。「やあ、久しぶり」先生はゆっくりとした口調で話すと僕の向かいの席に座った。そしてすぐさまポケットから煙草を取り出して、おもむろに吸い出した。銘柄はセブンスターだった。「きみは吸わないの?」と聞かれたので「はい、吸いません」と答えた。先生、僕は未成年だよ。のちになり、僕が喫煙者になるのは、二十六のころ、勤め先の人間関係に疲れてやさぐれたとき、後輩から一本拝借したんだ。実はそれまで本当に一回も煙草を吸ったことがなかったんだ。本当にウブな僕。


 さて、その後しばらく二人で他のゼミ生を待っていたんだけど、いっこうに来る気配がない。僕の同学年を含め、何人かいるはずなのに、どうしてだろう? しばらくしたら先生がゆっくり立ち上がり「きみ、コーヒーは飲めるかい?」と僕に聞いた。「はい」と僕は答えたけど、本当はあまり好きじゃなかった。でも、ほぼ初対面の先生に否定語は使いたくなかったの。「じゃあ、喫茶店にでも行こうじゃないか」先生は灰皿がなからってウェットティッシュの上で煙草の火を消した。この人は豪傑なのではと感じた。


 後ろから見た先生は多少痩せているけれど、僕よりも背は高いし、肩幅が広くて偉丈夫、または歴戦の闘士という感じに見えた。歩きながら先生は言った。「本当ならば、きみの歓迎会をささやかにでも、やりたいところなのだが、あいにく肝臓をやられてしまってね。もう、酒が飲めないんだよ」とね。あとで、ある人に聞いたら堀先生はとんでもない大酒豪だったんだって。よかった、未成年なのにそんな酒に付き合わされたら死んじゃう。先生はほとんど顔の表情を変えないけれど、とてもやさしかった。しかし、その心のうちには強烈な怖さがあるような気がした。だって、高杉晋作の晋作だよ。片平晋作じゃない。結局、僕が三年の時、他のゼミ生は四年生が一回くらい来ただけで、誰も来なかった。三年生はどうもバックれたようだ。おかげで、まともなゼミの授業など一回くらいしかやらなかった。しかも、先生は、どの出版社の『資本論』を使うか言ってくれなかったので、授業が始まってみると、先生は岩波文庫版で、僕は大学生協の書店で見つけた新日本出版社版を買ってしまったの。今さら書い直すのは嫌だったから岩波文庫版は買わなかったよ。まあそれで正解だった。まともに授業を受けたのはたぶん一回だけ。しかも「質問はありますか?」と聞かれて「リンネルってなんですか?」と間抜けな質問をしてしまった。以後、喫茶店に行って、ブラックコーヒーを飲み、先生の時局雑談を黙って聞いていた。先生はいつも最後にこう言った。「きみ、絶望だけはしちゃいけないよ」と。いまになって、その言葉の大きさに気がついている。

 ふふ、僕は自分のことを「マルクス経済学出身」と言ってるけど、本当は『資本論』が一体どんな内容かなんて知らないんだ。もちろん、普通の人でも知っている「物の価値には生産された時に発生する価値と使用するときの価値がある」とか「労働者は自分の労働価値を企業に提供しその対価として金銭を貰う」程度はわかる……ような気がするよ。


 ある日、図書館司書の講義を受けていたら講義の最後に専任教授が「いま、我が校の大学図書館では学生職員を募集しています。興味のある者は、学生課の掲示板に詳細が書いてありますから見てください」と告げたんだ。僕は貧乏一家の育ちのくせにアルバイトをしたことが全くなかった。一回だけ学研の個別指導の勧誘のアルバイトの説明会にジンボくん誘われて行ったけど、要は営業だから僕には不可能なので逃げた。ジンボくんは結構迷っていたようだったけど、僕が早々に外へ出ちゃったんで、やめて出て来た。誘う人を間違えてるよ、ジンボくん。

 でも、今回はこう思った。「ここでやらないと一生働かなくなりそう」とね。正直に言うと結構、アルバイトをしていないことにプレッシャーを感じていた。でも、ひどい人嫌い状態だから、コンビニのレジ番とか居酒屋の店員などはムリだし、家庭教師が出来るほどの能力はない。工場のアルバイト募集は当時、見たこともない。で、直行直帰して、結局ゲームに耽っていたんだ。

 とりあえず、学生課の貼り紙を見に行った。そして、うだうだと長時間、悩んでいたら絶対に応募するのをやめてしまう。悩み無用だ! と勢いよく学生課に入った。そうしたら、職員の人が内線で図書館に電話してくれ「図書館準備室に行って」と言われた。しかし、僕は入学以来一回も大学図書館に行ったことがなかったの。場所も知らない。学生課の職員は「こいつ、大丈夫か?」って顔をしていた。だいたい、國學院大学って文学部文学科と史学科が重要な柱であって、経済学部と法学部はグリコのオマケとなんら変わらないマヌケとアホの集まりなんだ。グリコさんに悪いこと言っちゃったね。だって、経済学部には卒業論文がないんだよ。大勢のゼミなら代わりにゼミ論を求められるけど、ウチのゼミは単なる「お茶会」だからねえ。このゼミをバックれたやつらに感謝したい。僕はブラックコーヒーが飲めるようになりましたと。以降、僕はコーヒーはブラックでしか飲まない。


 図書館事務室に行くと、優しげな中年男性がいた。その雰囲気で安心した僕はあまり緊張せずに面接を受けられた。最後に男性は「あなたはやさしそうだから大丈夫でしょう。でも、三年生であっても一番下っ端の二等兵だよ。それに耐えられる?」と聞いて来たので、強い口調で「大丈夫です」と答えた。本当の戦場じゃないんだから、下っ端の方が楽だよね。即日採用決定。本当にこの人はいい人だと思ったのだが、のちに同僚から「あの人、悪人だよ」と教えられた。まだ人相見の力は芽生えてなかったね。


 さらに、僕は衝撃の事実を知ってしまった。この学生職員。通常は付属から上がってきた人が一年から務める。それ以外でも一年から務めるのが当たり前という、ある種の徒弟制度みたいなシステムがあって、僕のように三年から入ることは過去になかったらしい。よっぽどの人手不足か、僕がブレイクスルーしちゃったかのどっちか。まあ前者でしょう。

 僕は一部の学生だから午後四時半スタート。朝から夕方までは二部の学生が働いていた。とにかくバラエティーに富んだ連中だった。二等兵と言われたわりには、学年が下の学生は敬語で話してくる。もちろん僕も敬語。最初だけだったけどね。なにも知らない状態で威張ってはいられない。謙虚が一番。この大学図書館は閉架式で、利用者は書誌情報が書かれたカードをめくりにめくってお目当ての本の分類コードを探し、それを規定の用紙に書いて、カウンターに提出。カウンターにいる人はそれぞれの用紙を分類コード別に仕分けて、エアシューターでその本が陳列されている階にシューッと打ち上げる。各階には人がいてエアシューターから用紙を出して、その分類コードの棚に行き本を探し、これをリフトでカウンターの後ろまで下ろす。それをカウンターの人が利用者に渡すの。今じゃ考えられないね。ネットもデータベースも何にもない頃だもの。いまは一体どうなってるのか……


 なんか仕事を続けているうちにどんどん同僚と仲良くなって、飲みに行ったり、カラオケを歌ったりした。もちろん僕は杉山清貴&オメガトライブ一本槍。たまには、嫌なこともあったけど、働くことで生活にハリが出来た。大学に行くのが苦痛ではなくなった。ここで働いていなかったら、就職も出来なかったと思う。みんな僕が明るくなったと言ってくれた。いいことづくめだったんだけど……

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