第9話 神奈川県立日本体育大学予備校

 僕は、ただ従兄弟のお兄さんが通っていたという理由だけで、神奈川県立港北高等学校を受験することに決めたので、この高校の校風とかはなんにも知らなかったの。その一方で、滑り止めに組長から受験を勧められた私立世田谷学園高等学校の方は、晶文社の『高校受験案内』お馴染みの黄色いやつね。あれで必死に校風や受験対策を練っていた。ただね、世田谷学園って男子校なの。さらに通学するには、東急東横線の菊名駅から渋谷に出て、そこから、いまの東急田園都市線、当時は確か新玉川線って言ったかな? それで池尻大橋駅に行くの。僕はまだというか死ぬまで一生、三半規管が弱いから、電車に乗るためには酔い止めの薬、たぶん『ドリブラ』だったと思うんだけど、それを服用しなくてはならないのさ。僕はさ、生まれた時からヤク中だよ。でも合法的なものしか飲んでませんよ。のちのことだけど、故中島らも氏のエッセイにハマって、クスリの誘惑にもう少しで堕ちるとこだった。大麻だの咳止めの『ブロン』などなど、やってみたかったけれど、快楽が来なくて気持ち悪くなるだけの可能性もあると思ってやめた。なにせ、年に何回かは必ず嘔吐する人間たから咽頭がんになりそうで怖かった。まずは、胃薬・鎮痛剤それに酔い止め。


 港北高校の入試の時に大失態を演じてしまったので、縁起が悪いから不合格だと思っていた。「人生初の詰襟か。女子はいないのかあ」かなり憂鬱だったね。

 でもふたを開けると大合格。うれしかったよ。でも今回一緒に受験した自分の中学の女子で唯一の美人さんだったトキワさんが落っこちてしまったのさ。これは痛恨だったね。もう、妄想の中では、人見知りキャラを一旦捨てて、早々にトキワさんにアタックしちゃえと思っていたのさ。目論見はまんまと外れた。でもまあ、これから未知の美人が現れる可能性もあるからいいさ。もっと痛恨事だったのが、僕の親友が神奈川県立鶴見高等学校か神奈川県立岸根高等学校(体操の、白井健三選手の母校)に綺麗に別れちゃって、港北高校には、ほとんど喋ったことがないか、生理的にイヤなやつしかいなかったの。これはかなり辛かったね。もう、この段階で、僕の人見知りというか、人嫌いはピークを迎えて、クラスメートと仲良くなるなんてことはほぼムリだったんだ。その衝撃は入学してすぐの体育の時間に襲って来た。体育教師が「ペアを組め」というんだけど、あぶれちゃった。仕方ないから、自閉症みたいでみんなから変な目で見られていた子とペアを組んだよ。「僕もこの子と一緒で変人扱いされてるのかな?」と考えて不安になった。でも、どこか他府県から引っ越して来た男子が僕に声をかけて来たの。これは完全に救う神ありだね。さらに、なにをトチ狂ったのか、僕は友人になった……残念だけど、名前を忘れてしまった! とにかく彼と一緒に硬式テニス部に入っちゃった。ラケットすら握ったこともないのにさあ、おかしいよね。絶対モテたいと思って不純入部したんだよ。まあ、あとで泣きを見るけどね。


 そうだ、僕の一年上に女優の冨田靖子がいたの。あの頃は毎年生徒の住所録が配られててさあ、今じゃ考えもつかないよね。ちなみに彼女の住所は所属事務所だった。ああ、そのころは毎年発行されるベースボールマガジン社の『週刊ベースボール』のプロ野球選手年鑑に、選手の家族構成というか妻子の名前とか、住所とか載ってたんだよ。僕の家の近くにホエールズの基満男内野手、竹内広明投手、石橋貢内野手だったかなあ、が住んでたの。石橋ってプロ野球史上最悪の審判暴行事件のきっかけとなる超凡プレーをした人なんだ。しかも、僕はムグルマくんとその試合を球場で見ていたような気がする。とにかく彼は守備が下手で、後半は外野手をやっていたと思う。でも余計なところで見事なホームランを打つの。ある意味でプロ野球史上、新庄の次に最高な不思議ちゃんだよ。


 さて、僕がなぜタイトルに意味がわからないことを書いたか。それは、理由はわからないんだけど、この高校は無茶苦茶体育教師たちの学内での権力が強くて、体育の授業が「僕たち、古代ギリシャのスパルタ軍の兵士ですか?」ってお尋ねしたくなるほど過酷だったし、教師がみんな、おっかなくてイヤなやつなの。しょっちゅうあいつらにはひどい目にあったよ。いつも温厚なふりをしている僕が「あいつらいつか、ぶっ殺す!」と思ったくらいひどかったなあ。今なら、全員が懲戒免職じゃないの?


 硬式テニス部の話。

 ラケットも握ったことがなく、テニスのルールも知らず、体力だってない僕がこの部活に入ったのはある意味で愚かだったかもしれない。だって、ラケットを持ってないからずっと先輩に借りてたの。なにか僕のこと哀れに思ったのかコイズミ先輩がお古のラケットをくれたんだけど、それがなんと、ウッドラケットだったの。僕はビヨン・ボルグになった気分だよ。ジミー・コナーズのジイさんだって、もうウッドラケットではなく幻のラケット、T -2000ね、あれを使ってたよ。テニス部の同学年にちょっと頭のおかしい子がいて、完全にコナーズかぶれになっちゃって、どっかからT -2000を見つけて来たの。それも複数本。「それじゃあ、幻のラケットじゃないじゃん」と思ったけど、頭のおかしい子の執念はすごいね。

 僕は握力が普通の高校生より弱いから、ウッドラケットを振ると、すっぽ抜けちゃってどっかに飛んで行ってしまうの。かなり恥ずかしかったな。でも、約三キロの鶴見川沿い長距離走とか、腕立て、腹筋、背筋、スクワット、足上げ腹筋という筋トレは意地で頑張ったよ。頑張りすぎて、小さい頃から実姉に連れられて通ってた、英語の個人塾は追い出され、公文式の国語(数学はとんでもなく理解不能なところまで行ってしまってギブアップした)は実母に教室まで問題用紙を取ってきて貰い、それを解いてまた実母に持って行って貰ってた。実母は幼い頃、行儀作法や頻繁に起きる僕の癇癪とかを厳しく叱っていたけれど、もうこの頃から全然怒らなくなっていた。僕は決して品行方正ではないんだけどね。ただ、僕には反抗期がなかったの。正直なところ僕自身、僕のことがよくわからなかった。老いぼれちゃった、いまもまだわからない。精神病と一言で片付けていいのかもわからない。たぶん死ぬまでわからないんだろうと思う。


 あっという間に一年経ってクラス替えがあった。ここでようやく友人が複数出来た。ホッとしたよ。そのうちの一人が同じ中学出身で、さらに彼の友人がまた友人になった。そうしているうちに僕の横に座ってた、未成年喫煙者、でもいいやつと神経質な男も友人になった。クラスには恐ろしい不良軍団や硬式野球部の連中がいたけど没交渉だったね。住む世界が違うんだ。当然クラスの結束力なんてないけど、それでいいのだ。


 硬式テニス部はやめなかったよ。僕は小遣いとお年玉を貯めて、ようやく、まともなラケットを入手した。でも、定番のヨネックスではなく(新潟の企業なのに不義理をしたよ)、たまたま部室にパンフレットがあった、ブリジストンのラケットを買ったの。相変わらずのひねくれだ。でも、このラケットが僕と相性がよくて、急にテニスが上達した。開眼かな? おかげでみそっかすから解放されて、ちょっとおっかない先輩に「お前、うまくなったなあ」と言われてうれしかった。ただ、対外試合には運がなくて、県大会の予選だったかな? 僕の試合会場が、はるかかなたの小田原の高校だったの。「行けねえよ」とやさぐれていたら、実父が「俺が新幹線で連れてってやる」とか、普段言わないようなことを口にした。そのせいで試合の日の早朝、大雨が降ったよ。「俺は中止だ」と早合点した僕はお布団に戻った。再び目覚めると、お空はピーカンというやつでしたね。僕は棄権人物だよ。


 三年になると、慣例に従い部活動は強制引退。以後、たまに遊びでやってたけれど、そのうち運動をする余力がなくなり、愛用のラケットにはカビが生えちゃって、強制廃棄。もう、僕がコートに立つことはない。グランドスラムも達成出来なかったよ。


 ああ、高校時代は特に恋に落ちるような女子に出会わなかったので、パスね。

 

 もうこうなると受験勉強に励むしかないんだけど、相変わらず参考書とか問題集を買うという概念がなかった。ただ、友人の一人に誘われて、週に一回、土曜日に、いまはなき代々木ゼミナール横浜校に英語を習いに行った。すごい生徒数だったよ。当然、僕は知らないんだけど人気の講師だったみたい。いつも金ピカ先生の悪口を言ってたな。でもね、僕は講師の言っていることが全くわからなかったの。だって、英語が大嫌いなんだもの。しかも講師は『プログレッシブ英和中辞典』を持って来いって言ってるのに僕は『アンカー英和辞典』を持って行ってたの。意味ないね。結局、たまに代ゼミの全国模試を受けに行ったけど、成績は思わしくなく、たいして真面目に受験勉強しないまま、願書提出期間になった。


 僕は願書って大学に行かなきゃ買えないと思ってたんだ。そしたら秀才の友人が「本屋で売ってるよ」というので、慌てて、バカ書店横浜駅西口トーヨー店の参考書売り場に行ったの。ついでに初めて受験参考書というものがあると知った。

 まさか数年後に、自分がここで働くとは夢にも思ってなかった。

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