最初から上手なキスができるとは限らない。
柴坂さんが帰ってから数十分後。
「光、俺は友達に呼ばれたんでちょっと出かけてくる。晩飯は適当にやってくれ」
「いいけど……お父さん、またベロベロになってこないでよ」
「気をつける」
「こんなに軽い言葉もそうそうないわね」
「俺を信用しろ」
「前もそう言って、夜中に叫びながら帰ってきたじゃない。おかげで次の日寝不足になったんだからね」
「娘の学業の邪魔はしません」
頼清さんは敬礼して居間を出ていった。やっぱり、精神年齢が若い気がするな。
「景国くん、うちで食べていく?」
「えっと、母さんがコンソメスープを作り置きしていってくれたんですけど」
そうか、先輩を誘えばいいんだ。
「先輩こそ、うちに来て食べませんか?」
「いいの?」
「もちろんです」
「じゃあ、このまま行こっか」
† †
我が家の台所で、月海先輩が野菜を千切りにしている。
トントントントンと心地いいリズムを刻む包丁。
いいなあ。
先輩がすぐそばで料理をしてくれる日常。最高すぎる。
「はい、簡単だけど追加でシーザーサラダよ」
「ありがとうございます」
食卓に具材たっぷりのスープとサラダが並ぶ。
ぼくたちは手を合わせ、食べ始めた。
「最近、二人でゆっくりする時間が減ってたかも」
「言われてみれば……。いつも誰かしら一緒でしたもんね」
「この前も景国くんのお部屋に入れたのに、推薦文のチェックをしただけだったし」
「ぼくが選挙に関わっちゃったからかなあ。それもあと一週間くらいなので、もう少しです」
「早く未来生ちゃんに決まっちゃえば全部終わりなのにね。なんだかもどかしい感じ」
……そうだよな。
月海先輩が学校に通うのもあとわずか。
3年生は来年の1月を過ぎたらもう学校には来なくなる。
学生として一緒にいられる時間はどんどん短くなっているのだ。
「先輩、さみしくなったらいつでも呼んでください」
「どうしたの、急に」
「ぼくは学校のどこからでも駆けつけますよ」
「……そうね、来てくれたら嬉しいな。私、さみしがり屋だからね」
先輩がクスッと笑った。
「残された時間のこと、気にしてくれるんだ」
「来年になってから後悔しても遅いので……」
「そうよね。一生高校生でいられたらなぁ」
はあ、と二人でため息をつく。
「すぐ会えるって言っても、来年からは制服の景国くんを見られる回数も減っちゃいそうなのよね。それも残念だし……」
「ぼくも、先輩の制服姿が見られなくなるのはさみしいです」
「私、似合ってた?」
「すごく。先輩は黒が似合うのでうちの高校の制服はぴったりです」
「ありがとう。景国くんはまだ服に着られてるところがあるかな?」
「自覚はあります……」
去年からあまり身長も伸びていないし、ブレザーが少し大きく感じられる。
「そこがかわいいんだけどね。――まあ、ここで暗くなってても仕方ないかな。時間は有意義に使わなきゃ」
「そうですね。今度、制服のまま出かけましょうか」
「いいわよ。鍛練がお休みの日だったら行けるわ」
「クラリッサとか?」
「長野駅前もありね」
「じゃ、久しぶりに駅前まで行きましょう」
「ネックレス買ったとき以来かしら」
「そうですね。……あ」
「どうしたの?」
ぼくは食べ終えて箸を置く。
「実は先輩に言わなきゃいけないことがあったんです」
「なに?」
「ぼくは1万超えのネックレスを買ったのに、先輩に贈った誕生日プレゼントは……その……あっ」
人差し指で額をつつかれた。
「私が金額を気にする人間だと思う?」
「でも、一応……」
「景国くんが自分のお小遣いを切り詰めて買ってくれたネックレスでしょ。それが嬉しいんじゃない」
「先輩……」
「それに、景国くんのネックレスを選んだのは私のようなものだし」
反論しかけたが、やめた。野暮な気がした。
「お金の話をするとキリがないからこれでおしまい。私はこれからもこのネックレスを大切につけるつもりだからね」
先輩はそう言って、首筋を撫でた。
本当に大切にしてくれているのが伝わってくる。胸が温かくなった。
「食べ終わった? 洗っておくから、景国くんは部屋に戻っていいわよ」
「はい……」
月海先輩が食器をシンクに持っていき、洗い始めた。
ぼくが洗うより早いし、使う水の量も少ない。だからついつい甘えてしまう。
ぼくはイスに座ったまま動かなかった。
久々に先輩とゆっくり過ごせたせいか、このまま別れたくなかった。
先輩が水を止める。
「あの、光先輩……」
「どうしたの、さみしそうな声で」
「キス、したいなって……」
つぶやくと、先輩が小首をかしげた。そして微笑んだ。
「やっと、景国くんの方から言ってくれたね」
「もしかして、ずっと待ってたんですか?」
「私からばっかりだったし、いつか来てくれるかなって思ってたの」
「いいですか、今日でも……」
「ええ」
ぼくは先輩に近づいた。そっと、二の腕に触れる。
先輩が少し、体勢を低くしてくれた。
「さあ、景国くんが来て」
「はい」
ぼくは目を閉じて、月海先輩の唇に自分の唇を重ねた。
全身が熱を持った。
とたんに心臓がドクドクと強く脈打つ。
数秒、そのままでいた。
先輩の吐息がかすかに聞こえた。
ぼくは顔を離す。それから息を吐き出した。
初めて自分からキスをした。また一歩、成長できた気がする。
「ふふっ」
先輩が楽しそうに笑った。
「もう、景国くんってば」
「な、何かおかしかったですか?」
「最初、すごくずれてたんだもん。私と貴方の唇、半分くらいしか重なってなかったわよ」
「うっ……」
緊張していたから目を閉じていたのだ。だからよく見えなかった……というのは言い訳になるんだろうか? ぼくが下手すぎるだけでは?
「す、すみません……」
「気にしないで。これも思い出よ」
先輩がずっと笑顔だったから、ぼくも安心できた。
「とうとう景国くんにキスしてもらっちゃった。今夜眠れるかしら」
「ぼ、ぼくも明日は寝不足になるかもしれないです」
二人で顔を見合わせ、笑った。
今日は上手くいかなかったけど、まだ一回目だ。この先もチャンスはあるはず。次はしっかりやってみせる。
「そろそろ帰るわね。景国くん、あったかくして寝なきゃ駄目よ」
「そうします。先輩、ありがとうございました」
「こちらこそ。また明日ね」
玄関まで先輩を見送る。戸を閉める直前、先輩がぼくを見た。
「次も、期待してるから」
その瞬間、ぼくはキスの練習をしようと思った。……いや待て、どうやるんだ?
† †
その日の夜中、泥酔した頼清さんが帰ってきて、月海先輩は別の意味で眠れなかったという……。
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