ファーストキスはもう少し待って
「続いてAEDについて説明しまーす」
講師の説明をぼんやり聞きながら、ぼくは朝の月海先輩について考えていた。
……何か悩みでもあったのかな?
最近のぼくは、ようやく苦手な朝を克服しつつある。先輩と一緒に登校するのが当たり前になってきた。
毎日色んな話をしながら学校へ行くわけだが、今朝の月海先輩はやけに静かだった。話を振ると、何度か「え?」と返された。どこか上の空で、それがずっと気になっている。
月海先輩は悩みをなかなか話してくれないから、心配になってしまう。
「それでは実践してもらいます。えーと、じゃあ柴坂さんからいきましょう」
「わかりました」
AEDと心肺蘇生法の講習はどんどん進んでいた。
いかんいかん。集中しないと。ぼくまで上の空ではまずい。
学校の西側にある同窓会館で講習は行われていた。白い床はピッカピカで、スリッパだともはや工事ミスではと思うほどよく滑る。
全員が体育用の黒ジャージで、複数の班ごとに説明を受けていた。
柴坂さんが前に出た。動きやすさ優先なのか、髪を束ねて流している。
柴坂さんはすばやく、床に横たわっているマネキンに近づいた。
「大丈夫ですか?」
呼びかけて意識の有無を確認する。
「矢崎さん、救急車を呼んでください。黒田さん、AEDを持ってきてください!」
ハキハキ指示を飛ばす。それを受けたサポートの二人が「はい」と返事をしてそれぞれ動いた。
柴坂さんはマネキンの顔を動かして気道を確保。呼吸を確かめたあと、両膝をついてマネキンに体を寄せ、人工呼吸を行った。講習なので、事前に用意されたラップを通してとはいうものの……。
なんか、ドキドキする……。
柴坂さんが真剣そのものだから、人工呼吸をしている姿がやけに色っぽく見えるのだ。
――って、不謹慎すぎるだろ!
命を救うための講習なのに、ぼくは何を考えているんだ。
胸骨の圧迫と、人工呼吸を交互に繰り返す柴坂さん。手つきはかなりしっかりしたもので、恐る恐るという様子はまったくなかった。度胸がある人はこういう場面でもしっかりしているなあ。
「うん、とてもよかったですよ」
講師の先生が柴坂さんを絶賛した。班のメンバーもみんな拍手する。
「じゃあ次は……戸森君、やってみましょうか」
「は、はい!」
「サポートは私と黒田さんでやりましょう」
「りょーかい。戸森君ファイト」
「う、うん」
やばい、最初の方をしっかり聞いていなかった。
とりあえず柴坂さんの見よう見まねで乗り切るぞ!
「始めてください」
「はいっ――いてっ!」
ぼくはマネキンに近づこうとして、滑って転んだ。
「戸森君が倒れたぞ! 誰かAED!」
「黒田さん、悪ノリは禁止です!」
「いてて……」
「慌てなくていいので、落ち着いて。でないと怪我人が増えるだけですからね」
講師の先生に言われ、ぼくは最初の位置に戻った。恥ずかしくて顔が熱かった。
「じゃあ、もう一回いきましょう」
ぼくはマネキンに駆け寄った。すばやくしゃがんで意識の確認。ここまでは順調だ。
「柴坂さん、救急車を呼んでください! 黒田君、119番に連絡を!」
「2台来ちゃうよ」
「あっ……」
「肝心のAEDを言い忘れてどうするんですの……?」
講師の先生が笑っていた。
「戸森君は最後にしましょうか。他の人のやるところを見てから、あらためて実践ですね」
「すみません……」
ボロボロであった。
† †
「景国くん、ちょっと横になってほしいんだけど」
「えっ」
「お願い」
帰宅後。
月海先輩に呼ばれたので道場に行ってみたら、袴姿の先輩にいきなりそんなことを言われた。
「こ、こうですか?」
「うん、いい感じよ」
ぼくは板の間に横になった。
「じゃあ早速」
月海先輩がぼくに覆いかぶさるように移動してきた。
「せ、先輩――!?」
「意識は……ないわね」
「ありますよ!?」
「うーん、意識があると困るから寝てもらうしかないかしら?」
「どういうことですか!?」
「まあ、今はないことにして進めましょう。――これは搬送しなきゃ駄目ね」
「駄目じゃないです!」
「救急車とAEDを用意してください!」
「…………」
そこまでいって、ようやく先輩が何をしたかったのかわかった。
先輩のクラスも昼間の講習を受けたのだ。
それをぼく相手にやりたかった。
「それじゃ、次は人工呼吸……」
先輩はぼくの顔を見つめ、視線を逸らした。
「胸骨の圧迫をしないとね」
「うー、息ができないなー」
「この辺かな」
「呼吸には誰かの力が必要だー」
「はっ」
「ぐふっ」
胸に圧がかかって思わず呻いた。かなり軽めだったけど……加減してくれたのかな。
「ふう……」
「先輩、二回やったら次は人工呼吸を二回ですよ」
「あ、景国くん意識が戻ったのね! よかった!」
「意地でもやらない気ですかっ!」
ぼくは飛び起きる。
先輩が両手の人差し指をつんつん合わせた。
「ごめんなさい……深く考えてなかった……」
「急に何が始まるのかと思いましたよ」
「ちょっと景国くん相手にやってみたいなって思っただけなの。そうね、人工呼吸は盲点だったわ」
「ぼくは――」
言いかけて、やめた。
――別にしてもらってもかまわなかったですよ?
それは言ってはいけないことだと、すぐに気づいたから。
ぼくと月海先輩は、唇を重ねたことはない。
互いの唇が触れないとファーストキスをしたことにならないのであれば、まだということになる。
とても大切な行為だ。
こういうノリでやってしまったら……きっと後悔する。
月海先輩が思いとどまってくれてよかった。呼び込もうとした自分が恥ずかしい。
じゃあいつやるんだ?
わからないけれど、その時が来たら自然とできるような気がする。
「景国くん、わざわざつきあってくれてありがとう。なんだか悪いことしちゃった気分」
「気にしないでください。手順の確認にもなりましたし」
「相変わらず私を責めないのね」
「さっきまで意識飛んでたみたいでまだふわふわしてて」
月海先輩がくすっと笑った。
「そういう設定だったわね」
ぼくも自然と笑顔になれた。
「ところで先輩、一つ訊きたいんですけど」
「なに?」
「今朝、なんだか元気がなかったように見えました。何かあったんですか?」
「……そう?」
「ちょっと上の空になってるなって感じて」
「そっか。態度に出ちゃってたんだ……」
先輩は少し間を置いたあとに言った。
「
「フリーステージで演舞を見せるっていうやつですか?」
「うん。一度しかない機会だし、大切にするべきだってお父さんに言われて決心がついたわ」
「そうだったんですか。……ぼくは行かない方がいいんですね?」
「来ても、いいよ」
「マジですか!」
「木刀の初歩的な立ち合いをやるだけだから……たぶん大丈夫」
声が小さくなっていった。
「あの、始まってからそっと入っていきますね」
「そうしてもらえると助かるわ。どうしても、景国くんの前では100%の自分を出さなきゃって考えちゃうみたい。そのせいでかえって動きがおかしくなるというか……」
時々意外な面を見せてくれる先輩だけど、武術だけは完璧でありたいんだ。
これ、ぼくが見に行くのって邪魔になるだけかもしれないな……。
「心配しないで。その日までしっかり鍛練を積んでおくから」
「はい、楽しみにしてます」
「堂々と見せられるようになるから、もう少し待ってね」
ぼくはうなずき、立ち上がった。
頼清さんの足音がしたのだ。鍛練が始まるからぼくは退散しないと。
「先輩、頑張ってください。それじゃあ」
月海先輩に背中を向けた瞬間、
「キスも、もう少し待ってて」
そんな、ささやくような声が聞こえた。
† †
家に戻る途中、道路で足が止まった。
冴え冴えと青い月光の中で、ぼくは疑問を解消しきれずにいた。
……答えになってないような……。
今朝の態度について質問した。
それに対して、月海先輩は「演舞を引き受ける決心をした」と答えた。
でも、よく考えたらつながりがないように思える。
決心をしたなら、ぼんやりしてしまうのはおかしくないか。まだ迷っているというなら理解できるけど。
他に悩みがあるのだろうか?
それだけが引っかかっていた。
明日は茶々丸を連れて散歩に行くことになっている。
あらためて質問してみよう。
そう決めて、ぼくは家に入った。
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