ファーストキスはもう少し待って

「続いてAEDについて説明しまーす」


 講師の説明をぼんやり聞きながら、ぼくは朝の月海先輩について考えていた。


 ……何か悩みでもあったのかな?


 最近のぼくは、ようやく苦手な朝を克服しつつある。先輩と一緒に登校するのが当たり前になってきた。


 毎日色んな話をしながら学校へ行くわけだが、今朝の月海先輩はやけに静かだった。話を振ると、何度か「え?」と返された。どこか上の空で、それがずっと気になっている。


 門竹かんだけ先輩は1ヶ月の謹慎処分になったと聞いたが、不安はまた別のところにあるのだろうか?


 月海先輩は悩みをなかなか話してくれないから、心配になってしまう。


「それでは実践してもらいます。えーと、じゃあ柴坂さんからいきましょう」

「わかりました」


 AEDと心肺蘇生法の講習はどんどん進んでいた。

 いかんいかん。集中しないと。ぼくまで上の空ではまずい。


 学校の西側にある同窓会館で講習は行われていた。白い床はピッカピカで、スリッパだともはや工事ミスではと思うほどよく滑る。

 全員が体育用の黒ジャージで、複数の班ごとに説明を受けていた。


 柴坂さんが前に出た。動きやすさ優先なのか、髪を束ねて流している。


 柴坂さんはすばやく、床に横たわっているマネキンに近づいた。


「大丈夫ですか?」


 呼びかけて意識の有無を確認する。


「矢崎さん、救急車を呼んでください。黒田さん、AEDを持ってきてください!」


 ハキハキ指示を飛ばす。それを受けたサポートの二人が「はい」と返事をしてそれぞれ動いた。


 柴坂さんはマネキンの顔を動かして気道を確保。呼吸を確かめたあと、両膝をついてマネキンに体を寄せ、人工呼吸を行った。講習なので、事前に用意されたラップを通してとはいうものの……。


 なんか、ドキドキする……。


 柴坂さんが真剣そのものだから、人工呼吸をしている姿がやけに色っぽく見えるのだ。


 ――って、不謹慎すぎるだろ!


 命を救うための講習なのに、ぼくは何を考えているんだ。


 胸骨の圧迫と、人工呼吸を交互に繰り返す柴坂さん。手つきはかなりしっかりしたもので、恐る恐るという様子はまったくなかった。度胸がある人はこういう場面でもしっかりしているなあ。


「うん、とてもよかったですよ」


 講師の先生が柴坂さんを絶賛した。班のメンバーもみんな拍手する。


「じゃあ次は……戸森君、やってみましょうか」

「は、はい!」

「サポートは私と黒田さんでやりましょう」

「りょーかい。戸森君ファイト」

「う、うん」


 やばい、最初の方をしっかり聞いていなかった。

 とりあえず柴坂さんの見よう見まねで乗り切るぞ!


「始めてください」

「はいっ――いてっ!」


 ぼくはマネキンに近づこうとして、滑って転んだ。


「戸森君が倒れたぞ! 誰かAED!」

「黒田さん、悪ノリは禁止です!」

「いてて……」

「慌てなくていいので、落ち着いて。でないと怪我人が増えるだけですからね」


 講師の先生に言われ、ぼくは最初の位置に戻った。恥ずかしくて顔が熱かった。


「じゃあ、もう一回いきましょう」


 ぼくはマネキンに駆け寄った。すばやくしゃがんで意識の確認。ここまでは順調だ。


「柴坂さん、救急車を呼んでください! 黒田君、119番に連絡を!」

「2台来ちゃうよ」

「あっ……」

「肝心のAEDを言い忘れてどうするんですの……?」


 講師の先生が笑っていた。


「戸森君は最後にしましょうか。他の人のやるところを見てから、あらためて実践ですね」

「すみません……」


 ボロボロであった。


     †     †


「景国くん、ちょっと横になってほしいんだけど」

「えっ」

「お願い」


 帰宅後。

 月海先輩に呼ばれたので道場に行ってみたら、袴姿の先輩にいきなりそんなことを言われた。


「こ、こうですか?」

「うん、いい感じよ」


 ぼくは板の間に横になった。


「じゃあ早速」


 月海先輩がぼくに覆いかぶさるように移動してきた。


「せ、先輩――!?」

「意識は……ないわね」

「ありますよ!?」

「うーん、意識があると困るから寝てもらうしかないかしら?」

「どういうことですか!?」

「まあ、今はないことにして進めましょう。――これは搬送しなきゃ駄目ね」

「駄目じゃないです!」

「救急車とAEDを用意してください!」

「…………」


 そこまでいって、ようやく先輩が何をしたかったのかわかった。

 先輩のクラスも昼間の講習を受けたのだ。

 それをぼく相手にやりたかった。


「それじゃ、次は人工呼吸……」


 先輩はぼくの顔を見つめ、視線を逸らした。


「胸骨の圧迫をしないとね」

「うー、息ができないなー」

「この辺かな」

「呼吸には誰かの力が必要だー」

「はっ」

「ぐふっ」


 胸に圧がかかって思わず呻いた。かなり軽めだったけど……加減してくれたのかな。


「ふう……」

「先輩、二回やったら次は人工呼吸を二回ですよ」

「あ、景国くん意識が戻ったのね! よかった!」

「意地でもやらない気ですかっ!」


 ぼくは飛び起きる。

 先輩が両手の人差し指をつんつん合わせた。


「ごめんなさい……深く考えてなかった……」

「急に何が始まるのかと思いましたよ」

「ちょっと景国くん相手にやってみたいなって思っただけなの。そうね、人工呼吸は盲点だったわ」

「ぼくは――」


 言いかけて、やめた。


 ――別にしてもらってもかまわなかったですよ?


 それは言ってはいけないことだと、すぐに気づいたから。


 ぼくと月海先輩は、唇を重ねたことはない。

 互いの唇が触れないとファーストキスをしたことにならないのであれば、まだということになる。


 とても大切な行為だ。

 こういうノリでやってしまったら……きっと後悔する。


 月海先輩が思いとどまってくれてよかった。呼び込もうとした自分が恥ずかしい。


 じゃあいつやるんだ?

 わからないけれど、その時が来たら自然とできるような気がする。


「景国くん、わざわざつきあってくれてありがとう。なんだか悪いことしちゃった気分」

「気にしないでください。手順の確認にもなりましたし」

「相変わらず私を責めないのね」

「さっきまで意識飛んでたみたいでまだふわふわしてて」


 月海先輩がくすっと笑った。


「そういう設定だったわね」


 ぼくも自然と笑顔になれた。


「ところで先輩、一つ訊きたいんですけど」

「なに?」

「今朝、なんだか元気がなかったように見えました。何かあったんですか?」

「……そう?」

「ちょっと上の空になってるなって感じて」

「そっか。態度に出ちゃってたんだ……」


 先輩は少し間を置いたあとに言った。


未来生みくるちゃんのお願い、引き受けることにしたの」

「フリーステージで演舞を見せるっていうやつですか?」

「うん。一度しかない機会だし、大切にするべきだってお父さんに言われて決心がついたわ」

「そうだったんですか。……ぼくは行かない方がいいんですね?」

「来ても、いいよ」

「マジですか!」

「木刀の初歩的な立ち合いをやるだけだから……たぶん大丈夫」


 声が小さくなっていった。


「あの、始まってからそっと入っていきますね」

「そうしてもらえると助かるわ。どうしても、景国くんの前では100%の自分を出さなきゃって考えちゃうみたい。そのせいでかえって動きがおかしくなるというか……」


 時々意外な面を見せてくれる先輩だけど、武術だけは完璧でありたいんだ。

 これ、ぼくが見に行くのって邪魔になるだけかもしれないな……。


「心配しないで。その日までしっかり鍛練を積んでおくから」

「はい、楽しみにしてます」

「堂々と見せられるようになるから、もう少し待ってね」


 ぼくはうなずき、立ち上がった。

 頼清さんの足音がしたのだ。鍛練が始まるからぼくは退散しないと。


「先輩、頑張ってください。それじゃあ」


 月海先輩に背中を向けた瞬間、


「キスも、もう少し待ってて」


 そんな、ささやくような声が聞こえた。


     †     †


 家に戻る途中、道路で足が止まった。

 冴え冴えと青い月光の中で、ぼくは疑問を解消しきれずにいた。


 ……答えになってないような……。


 今朝の態度について質問した。

 それに対して、月海先輩は「演舞を引き受ける決心をした」と答えた。

 でも、よく考えたらつながりがないように思える。


 決心をしたなら、ぼんやりしてしまうのはおかしくないか。まだ迷っているというなら理解できるけど。


 他に悩みがあるのだろうか?

 それだけが引っかかっていた。


 明日は茶々丸を連れて散歩に行くことになっている。

 あらためて質問してみよう。

 そう決めて、ぼくは家に入った。

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