全部風邪のせいにしてしまおう

 座敷で横向きになっている月海先輩は、とても苦しそうな顔で眠っている。


 ぼくはどうすればいいのだろう。

 母さんが元気な人間だから人の看病をした経験がないのだ。


 とりあえず、ちゃんとしたところで寝てもらうべきだよな。


 ぼくは隣の座敷に入った。誰も使わない方の座敷には来客用の寝具などを置いてある。


 布団を掴んで持ち上げた。


 くっ、腕が震える……。


 病み上がりにはしんどい作業だ。


 しかしぼくは燃えている。


 先輩が風邪をひくなんてめったにないことだ。

 初めて、好きな人の役に立てるかもしれないのだから。


 居間に戻って、空いているスペースに布団を敷く。枕と掛け布団の準備もオーケーだ。


「で、どうするの?」


 我に返る。


 先輩はまだ目を覚まさない。ぼくが先輩を布団に動かしていいのか?


 それはつまり先輩を抱きかかえるということなんだけど……。


 視線を落とす。

 苦しそうな吐息。ゆっくり上下する胸。ブラウスとスカートという薄着。


 ――無理!


 先輩に触れるなんて恐れ多い。しかも意識のない時にって最低すぎるだろ。


 じゃあ畳に寝かせたままにしておくのか?


 ――いや、それもまずい。


 どうする。

 まさかこんな展開になるなんて予想もしていなかった。


「…………」


 覚悟を、決めるか。


 ぼくは深呼吸した。しつこいくらいやった。それでも気分は落ち着かないが、状況を前に進めなければならぬ。


 先輩にはあとで謝ろう。

 土下座でもなんでもする。誠意を持って。


「よし――失礼します」


 先輩の肩を押さえて仰向けにし、背中の下に腕を入れた。熱い。やっぱりひどい熱なんだ。


 上体を起こしたら、脇を抱えて布団に引っ張る。


 ううっ、すさまじい背徳感だ。

 先輩の熱が伝わってきて心臓のバクバクが止まらない。しかも、シトラスっぽい香りがして精神がかき乱される。


「んっ……」


 あえぐような吐息。

 ぼくは硬直する。


 やばい。やばすぎる。でももう引き返せないぞ!


 なんとか先輩の上半身を布団に乗せられた。


 あとは足さえ動かせば終わり。終わりなのはわかっているんだが……。


 短いスカートと膝上までのソックス。二つの間から見える、引き締まった足。


 持ち上げるの? いいのこれ?


「ああもう、どうすれば……!」


 頭を抱えていると、


「ん……あれ、景国くん……?」


 もぞもぞと動く気配。


「せ、先輩、起きました?」

「ここ、どこ?」


 まだ覚醒していないようで滑舌がよくない。


「うちの居間です。先輩、ここで具合悪くなったみたいで」

「…………」


 沈黙。


「あ、あああああっ!?」


 そして叫んだ。


「そ、そんな……まさか私、景国くんの家で倒れたの?」

「記憶ないんですか?」

「確か……シンクを洗ってる時に頭がくらくらして、終わったらすぐ帰ろうと思って……」

「でも、耐えきれずに座敷へ倒れ込んだと」

「う、ううっ」


 月海先輩が両手で顔を隠した。


「ごめんなさい。私、とんでもない迷惑をかけちゃった……」

「気にしないでください」

「気にする! 調子悪いってわかってたのに無理するなんて絶対にやっちゃいけないこと。……なのに、こんな……」

「お弁当代ってことにしませんか」

「え?」

「いつもお弁当作ってもらって、今日はキッチンまで綺麗にしてもらいました。それに比べたら、このくらい迷惑でもなんでもないです」


 当たり障りのないことを言っても先輩は自分を責め続ける。だったらいっそ屁理屈を並べた方が効くはずだ。


「例えば100点の天秤があるとしますね。今のところ、天秤は月海先輩の方に99点くらい傾いてるんです。それだけぼくは色々やってもらってますから。なので、今夜のこれでも95対5くらいにしか変わっていないんです。先輩はいつもみたいに堂々としていてください」


 先輩はぽかんとしていた。


「……ふふっ」

「楽になりましたか?」

「景国くん、そんな必死にならなくていいのに」

「ぼくは先輩の落ち込んでるところを見たくないので」

「まったく、貴方はいつも正直ね。――でも、ありがとう」


 先輩は大きく息を吐き出した。ブラウスの袖で汗をぬぐう。


「相談なんだけど……」

「なんでしょう」

「今夜、この布団借りてもいい?」

「どうぞどうぞ。その状態で帰るのは危ないですよ。しっかり休んでいってください」

「本当に、ありがとう」


 先輩は小さな声で言って、ポニーテールを解いた。髪を下ろした先輩を見るのは二回目だ。やっぱり新鮮。

 そこで気づいた。


「先輩、制服で寝たらシワになりませんか?」

「そういえばそうね」


 先輩が苦笑を浮かべた。


「景国くん、服を貸してもらえない?」

「えええっ!? ぼくのですか!?」

「使ってないジャージとかでいいから」

「そ、それだったら母さんのやつの方が……」

「そっちを借りると言い訳が難しいから」


 確かに。

 でも、ぼくの服を先輩に貸すなんて。今夜は背徳的な出来事が止まらないな。


「じゃあ、しばらく着てないやつ持ってきます」

「お願い」


 自分の部屋に行って、クローゼットから黒いジャージを引っ張り出した。去年買ったものだからまだ綺麗なはずだ。


 居間へ戻る。


「これを使ってください」

「ありがとう」

「じゃ、ぼくは部屋に戻るので、おやすみなさ――」

「一緒に寝る?」

「なっ、なんてこと言うんですか! 意味わかって言ってるんですよね!?」

「同じ布団でとは言ってないわよ。昔はたまに、布団を並べて寝たじゃない」

「あの頃とは違います……」

「わかってる。景国くんも狼になるんだものね」

「なりません!」

「まあ、貴方が嫌なら無理にとは言わないわ」

「…………」


 正直、迷っていた。

 こんなスーパー大チャンスを逃していいのか?

 というかここまで来ると、ぼくらは本当に恋人同士じゃないのかと逆に不思議になってくる。


 よし、今夜は全部風邪のせいにしてやろう。

 熱で浮かされていたんだ。

 そういうことにしておこう。


「ぼく、もう一つ布団持ってきます」

「あら、気が変わった?」

「せ、先輩が言い出したことですよ」

「そう慌てないで。景国くんの意志に任せるわ」


 ぼくは座敷から軽いマットレスを持ち出した。

 何があるかわからないから、先輩とは離れて寝よう。

 こたつを挟んだこちら側にマットレスを置く。


「私って案外信用ないのね」

「ね、念のためですよ。ぼくも一応男なので」


 また余計なこと言っちゃった……。


「そうね、男の子だものね」

「――あ、先輩着替えますよね! 隣に行ってるので終わったら教えてください!」


 ぼくは座敷へ飛び込んだ。強引だが追求は避けられたぞ。


 居間の方から衣ずれの音が聞こえる。

 どうしてこうも心臓に悪いことばかり起きるのか。

 頼清さんが遠征に行ってる間にこんなことになろうとは誰も予想していなかっただろう。


 でも今夜は達成感がある。

 先輩に、いつまでも頼りない奴のままじゃないというところを見せられたはずだ。

 そう、ぼくはおどおどしているだけのチビではないっ!


「景国くん……」

「あ、終わりました?」

「この上着、肩幅が足りないみたい……」

「…………」


 ……泣いていいですか?

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