第86話 デマにはおしおき270度開脚
「クソっ、煙のせいで全然前が見えないぜ。これこそまさに五里霧中ってやつだな」
五里霧中ならぬ五里煙中といった感じだろう。
俺は左手で壁に触れて、一歩足を降ろす。階段一段分、下がった。
一寸先は闇ならぬ一寸先は煙であり、前が見えないのは当然として、自分の足下も見えない。そこに足を降ろすことができる地面があるのか無いのかも真っ白過ぎて分からない。
もしかしたら、足を降ろした先には何も無くて、永遠の虚無の奥底に転落してしまうかも、という恐怖が心に沸き起こる。
「おい、二階堂さん、ついて来ているか?」
「はい、大丈夫です!」
後ろを振り返ると、やはり白い煙だけが空中にある。人の姿は見えない。まるで海の中でニシンの大群が産卵する場面に遭遇したみたいだ。だけど近くから声が聞こえて来るということは、そこに二階堂さんが居るということだろう。
後ろの二階堂さんに声をかけたのは、自分の恐怖を紛らすためだった。が、よくよく考えると、視界が全く利かない中で別々に動くのは不意に衝突したりして、危険かもしれない。
「二階堂さん、はぐれたら困るから、俺の手を握っていてくれ」
そう言って俺は右手を後ろに向かってゆっくり突き出した。一寸先は白い闇とはいえ、鼻先に手が出現すれば、さすがに見えるだろう。
もにゅん。と柔らかい感触が右手の指先に触れた。
「きゃっ! ちょっと監督、ヘンなところ触らないでください!」
二階堂さんの慌てた声と同時に、どこか心地よい柔らかなまろみは遠くへ逃げて、同時に俺の右手は外側からおそらくは二階堂さんの手に強く握り締められた。
「いててててててて! 握力込めないでよ!」
やっと握力を緩めてくれて、手の骨が折れると思った痛みから解放されてほっと一息。今は、俺の右手と二階堂さんの左手が手を繋いだような格好に落ち着いている。
「、、、、、、監督、火事場のどさくさに紛れてエッチなことをするなんて。やっぱり監督って、あの二人が言っていたような不審な人物だったんですね」
相手の顔の表情は煙の彼方であるため見えないが、二階堂さんは明らかにぷんぷん怒っていた。
「誤解だよ。今のはどさくさ紛れじゃなくて単なる偶然の事故だよ。真っ白で何も見えないんだ。わざと狙って胸の高さに手を出す、なんてことを、やろうと思ってもできることじゃないだろう」
「やっぱり、やろうとしていたんですか」
「やろうとしていないよ! 偶発的な不幸な事故だって言っているだろう。っていうか、クロハと恵水のヤツ、二階堂さんに対して俺のことをなんて言ってデマを吹き込んでいるんだ?」
「いかにもオジサンらしい人で、頭の中には常にエッチなことが渦巻いている、って断言していましたよ、二人とも」
出たよ。デマだよ。そういう事実は無いよ勘弁してくれっちゅうの。事実無根の風評被害だよ。んもう名誉毀損で訴えちゃるぞ。
「あの二人、後でキツい教育的指導ってやつをやってやる。この世に生まれてきたことを後悔するレベルで分度器きっちり当てて270度開脚をやらせてやっからな!」
「監督って聞いていた通りの人で、相撲の指導以外の部分って、本当に人間としては最低なんですね……」
や、やめろ二階堂さん。俺をそんな可哀想な人を見るような眼差しで見るな。……煙の中だから二階堂さんがどんな顔の表情をしているかは分からないんだけど。でも見えなくても分かる。
あれだ。二階堂さんは、ツンデレってやつなのかもしれないな、と今、思った。口ではキライとか言いつつ本心では好き、というアレだ。
というのも、繋いだ手で分かる。二階堂さんの掌は、じっとりと汗ばんでいる。フォースフィールドがあっても、そういった感触は普通に伝わるものらしい。火事の熱とか煙や一酸化炭素のような吸ったらヤバいものだけを遮断するのだから、さすが魔法で便利なものだ。
一段、一段、気持ちは急ぐけど実際の足取りはゆっくりになってしまっている。それでも確実に階段を降りる。手を握っているので、二階堂さんもついてきているはずだ。
「ん?」
踊り場で、足を止めた。次の下の段が無い。というか、瓦礫で埋まっていて、下に行けない。でも、足元から次から次と煙が吹き出てきている。
「なんだ。壁や天井が崩れたのかな?」
周囲を見渡しても、よく見えない。左手は、まだ壁に触れているが、足元が覚束ないので、これ以上先に進むのも躊躇われる。
「どうしよう、二階堂さん。思ったよりも火の回りが早いのか、天井が崩落しているらしい。階段が瓦礫で埋まっていて先に進めない」
「火の回りが早いというよりも、なんかこれ、爆発で一気に建物があちこち崩れたような感じじゃないですか?」
そうは言われたが、よく分からない。そもそも煙で視界が遮られていて、壁や天井の様子すらまともに確認できないのだ。俺が言った「火の回りが早い」も、二階堂さんが言った「爆発じゃないですか」も、明確な根拠に基づいた発言ではなく、限定的な状況証拠による推測だ。
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